フェルメールの光り輝く親密さのイメージ 結城永人 - 2017年3月3日 (金) 青年期、雑誌で初めてフェルメールの絵を見て余りの目映さに美しさの驚異を感じた。それ自体が光を放つように仕上げられているフェルメールの絵という印象を直ちに抱いた。電球が入っていて内側から照らされているような気持ちさえもしたので、異例中の異例の芸術作品ではないか、僕にとってフェルメールというと出会いの素晴らしさと切り放せなくなってしまっている。 それからしかし分かったのはメディアによって相当に違う、表示されているフェルメールの絵の質感が。 好きだと気に入って本屋で画集を開いてみたら望むべき光のひの字もなさそうだと確かめるように瞬いては狼狽えたし、これも初めての発見だったかも知れないけれどもあからさまにはまさか絵は実物で見るのと写真では違うんだろうと僕は写真でしかフェルメールの絵を見てないにせよ、思い知らされずにはなかった。 フェルメールの目映くも謎めいた絵の中で最も共感するレースを編む女 The lacemaker by Johannes Vermeer / Public domain フェルメールは十七世紀のオランダの画家で、およそ光り輝くような目映いばかりの絵を残したという極めて個性的な作風だったけれども詳しい情報が史実として必ずしも十分に残されてはいないかぎり、どんな生活だったのかも闇に包まれているんだ。 人々にとってはなぜ光り輝くような目映いばかりの絵を残したのかが非常に分かり難いままになっている。 フェルメールの絵の理論が日記か何かに読み取れればもう少しは益しだったはずのところで――発明済みだったカメラ・オブスクラを使って写真のように絵を描いたと聞かれるのも証拠があるわけではなくて推測の域を出てくれないらしい――悔しさを抱えながら見るしかないわけなんだ。他のどんな画家にも真似できなかったし、芸術的に果たせなかったかけがえのない美しさカメラ・オブスクラに魅了されるかぎり、いっそ絵だけで満足するしかないと心に訪れた幾許かの静けさと共に覚悟したくもなる。 フェルメールを愛するかぎり、作品は全て良いと思うし、感じるし、考えてはまるで恋人のような錯覚を受け取る 優しくなれるのではないか。一人ぼっちでフェルメールの絵を見詰めていると不意に忘れ去られてしまうけれどもきっと皆と一緒でも逆に同じはずならば胸にしっかり留めておきたいと願ってしまう。 つまり愛するかぎりのフェルメールへの思いは人生を豊かにしてくれるし、ひょっとしないまでも芸術として重要な地点を押さえられた結果なのは間違いなかったはずだろう、それぞれの絵において。 僕は親密を作詩していてかつてフェルメールのレースを編む女が思い浮かんで来たので、決して多くはないとされるけれども三十数点の絵の中でも取り分け共感を抱くようになった。 フェルメールの作風は黄色が印象的で、永遠を思わせるような雰囲気がある A Lady Writing by Johannes Vermeer / Public domain 光が生きる喜びだから最も近いのは黄色ではないかと空の記憶からイメージを手繰り寄せて晴れてないと困るとちょっとぼやきながらも絵に重ね合わせるように一つの意義を見出だそうとすると全体が目映いだけに黄色こそが出色と突き抜けて普遍的に味わわれる。 黄色が目立つフェルメールの作品 マルタとマリアの家のキリスト(1954〜55)ディアナとニンフたち(1655〜56)取り持ち女(1956)牛乳を注ぐ女(1957〜58)リュートを調弦する女(1962〜63)真珠の首飾りの女(1964)手紙を書く女(1965年頃)婦人と召使(1967)恋文(1969〜70)レースを編む女(1969〜70)ヴァージナルの前に座る若い女(1970〜72)ギターを弾く女(1972) 黄土色/金色が目立つフェルメールの作品 真珠の耳飾りの少女(1665年頃) モチーフも些細な日常なので、絵の芸術的な性格が速やかに伝わって来るせいだ。 レースを編む女もただ見ているだけで引き付けられるというと又浮き立つ心から恋人と例えたくなる。優しさが生まれるのも光の象徴としての黄色が何よりも欠かせないと気付きながら考えるとレースを編む女では絵の注目される中心の女が指先に神経を集中しているから本当に無理がない。ただ見ているだけで引き付けられる思いも優しさと共に包まれながら世界として浸らされるのではないか。余りにも自然な流れによって些細な日常が絵として眼差しから幸福感を迎えているとすれば画家の神業とも過言ではないだろう。 フェルメールの傑作に数えられる所以だと感じるよ、優しさに浸らされる世界こそレースを編む女において 本当に黄色い服を来た女がこちらを向いてない絵というアイデアそのものは笑い出すくらい簡単にせよ、全ては光り輝くような目映さに支えられているから奇跡なんだ。 フェルメールは光から詩を捉えて絵を描いているとレースを編む女からは凄く良く分かるし、奇跡だと生きる喜びと向かい合うほどに永遠を感じ取らせるならばもはや些細な日常としてもパーフェクトだと称えるだけだ。 僕が作詩した親密は恋愛に基づいているけれどもフェルメールのレースを編む女にも同じように受け取るのは人生だといいたい。生きる喜びが光だからそうした絵に親密さも宿っているのではないか。きっと詩的なかぎりだし、フェルメールは表現が甚だしく独創的だとしても人生を謳歌する気持ちがなければな思い付かなくて偶さかに打ち出されても効果的には響かなかったのではないか。胸には。 フェルメールの人柄を想像すると生きる喜びを光を介して詩的に創作した画家だったはずだから逞しくも健気な男性として奥さんや子供たちを含めて周りの人たちには良い顔を穏やかに振り撒きつつも絵という自作には死に物狂いで心のままに取り組んでいたようだ。 参考サイトヨハネス・フェルメールレースを編む女 コメント 新しい投稿 前の投稿
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