平和の原理/抽象力を有する人間性/論法そのもの

思い付いただけで大革命が起きている。人間性の中心に火山が著しく噴火しているせいだ。しかしマグマ大使の出番はなかった。驚きがキラウエア火山へ向けられていたためか、日本人には富士山よりも身近ではなかったし、または大革命が学校の授業ならば先生も話題を逸らしているに過ぎない。笑った生徒は疎らだったけど、とにかく良く聞いて欲しい。全員、もしも出て行かせるつもりならば多めに触れていたはずの金色の巨人に悔やんでは僕はいない。分析できたと今現在はイメージに満足している、却って。抽象性が手に入った気持ちは確かだ。まるで白玉団子が薄く平らに伸ばされるように世界へ染み透る知識ではないか。平和を呼んでいる感じがする。まだ起きているならば大革命も本当に静かなかぎり、原理的な仕方だったに違いない。かりにも驚きへは慣れて来たという一言で通り過ぎるわけには行かなさそうだから探し求めずにはいられない、明日、死に絶えるとしても。


ディーンの名言からそれは夢だった。まだ午前六時過ぎだ。十五時間以上も皆には残されている。煽っているのではない。秋刀魚の塩焼きならば天界まで取っておきの御馳走ではないか。今更、いきり立っても人生が勿体ないだろう。ゆっくり堪能するためにこそ夢を抱き締めたかった。ビビっているのも世紀末のせいではないし、あるいはバンドの聖飢魔IIならばリーダーのデーモン小暮を筆頭に案外と良い人たちだから恐いのは顔だけにしておくべきだと思う。どうだろう、僕に賛成する君の手は上がるはずにせよ、心のままにもどかしい今時分。認めたから何も要らない。ただ知りたいのはなぜ反対の方角から大砲が打ち鳴らされたのかの一点に尽きる。見詰めるな、見詰めるな。南南西で踊る鳥の名前ならば直ぐにいい当てられるし、カタカケフウチョウだ、ただし調べたかぎり。すると納得できないのは自分の立ち位置でしかなかった。砲弾は手品の一種だったし、飛び出した道化師が騙し打ちを目論むテロリストでもなかったのだから大丈夫だ。どうしても不安ならば太鼓判を押しても良い。大好きなスタイルならば対象は何だって構わないし、さもないと地獄が寄って来て鬱陶しい。無言を決め込むにかぎろう。只、無言が八つ裂きにされるのを考えると僕としては嘘にしておけば益しだったと嘆くだけだ。八つ裂きの嘘からは真実こそ認識されるはずではないか。苦しいのは知識が地獄のお陰になって生涯を感謝せざるを得なくなってしまう。もはや存在から悲しまされるという本当に最悪の事態を招くからやはり無言で正解だったんだ。益しだったと少しでも望んだのはしかしながら誤りでは必ずしもない。人間性は解き放つのに手間がかかる。地獄の真実を知るならばそれはそれで不幸を避けるのに役立てられるし、手に入れるのも骨折り損のくたびれ儲けとはかぎらない。今此処で賽子を振るならば人それぞれの想像に任せよう。平和が訪れる。僕と同じようにガンバの冒険イカサマをどれだけの人が胸に受け留めたにせよ、抽象力を発揮した結果だから幸せだった。原理的にいって訪れた平和に必要なのは降る賽子とは何かの問いかけから浮上したイメージだったし、僕が実現したのは精神から似通った記憶を引っ張り出して擦り合わせたせいでしかない。一つの感情がひょっとして正しい。幸せだったのも本音のかぎりは一つの思考とも重なり合っていたためならばただ頷くだけだろう。ところで反対の方角を測定できたのは「K」(カフカ)なのは分かっているにせよ、なぜなら職業が測量師だからだ、主体的な文学から捉えると人生の立ち位置も難しいのは仕様がなかった。覚えているか、人々は地獄を。邪悪な論法で八つ裂きを繰り返していた。一回目は腹減りのピラニアを詩情へ否逞しく訴えかけはしたものの戦慄を禁じ得ないのは二回目だった。詩人にも並大抵では察知されないほどの念入りの悪賢さによって脅しかけていたのではないか。僕は感謝したくはないし、地獄への仲間入りだけは君にも止めて欲しいと願っている。だから唱えよう、全ては夢に過ぎなかったように。天国へ論法そのものこそ今正に救い出して行くべきだ。


どうやって。兎は聞き、亀は黙り、鶴は飛んだ。君は健やかか、グリーンピースが散らばるほどに。ジェリービーンズではないのは日本のためだ。誤解しないようにしよう。アメリカよりも明るく感じられるせいで、グリーンピースでなくては気持ちが速やかに馴染めなかった。誰もさほど楽しんではいない。


論法そのものは凧揚げよりも豪快ではなくて何か。山葵に近いのは確かだけれどもわさビーフが食べたら直ぐになってしまうようには美味しくも受け取り得ない。何年も前から続いてそうで、まさか発売日を定められない思いは逆しまだ。ブログの些細な日常が人々に真実を告げるとしても無料だし、有料で出版化されるなんて触れただけでも不愉快なくらいあり得なさ過ぎる余りの不人気に何もかも打ち切りにしたい。


止めないんだ、しかしなぜか段落を変えても。論法そのものお陰だろう。


僕は疲れた。昨夜も大して眠れなかった。いつも無能力が無能力だから考えるしかないんだ。何で姪が治療抵抗性統合失調症なのか。そばにいなくても普通に暮らせるように仕向けなかった神の裁きだし、触れ合いながら軽度の知的障害が見抜けなかった自己責任として情けなく生きるだけの存在では実直に面倒臭い。貧乏の祟りからもはや自殺させてくれ――。


無理な相談なのはところが論法そのものならば心の重荷を軽くするために逸早く知らなくてはならないはずだ。


思考において君も同じように誰でも変わらない。人には人の自己責任があり、上手く行かなかった全てに無能力を強いられている。忘れた風船でも懐かしく思い出してくれれば著者として有り難い場面を国民的に迎えているにせよ、喜んでばかりはいられない。跳ね跳ぶな、僕よ。皆にとって日本人を気取る必要はないし、日本語なのに外国語として読ませるつもりならば最初から言葉遣いを気持ちにしっかり合わせよう。大事なのは皆のためでも自分のことのように取り組めるかどうかでしかない。敢えて論法そのものを目的語から抜き取って何にでも当て嵌まるような構文に仕上げているけれども本当に感謝したくなる。人生が個別に問われていた。だから理解されないとしても万人から受け入れられるためには抽象性が欠かせないんだ。


大事なのは皆のためでも自分のことのように取り組めるかどうかでしかない。


覚え込みたくて復唱してみると抽象性からやはり平和を感じる。誰にも当て嵌まるから経験は薄いし、文学的ではないにせよ、思想的には申し分ないからいつでも宗教を始められる状況かも知れない。


日々の幸せへの証明


人間は抽象力から感動を受け取る。平和の原理は美文から引き出されるかぎり、抽象力を対象として認識しているけれども論法そのものに基づいていた。美文が感動を与えるのはなぜか。論法そのものは人生を問うための方法、または思考に他ならないから抽象力を持っていなければならない。日々の幸せが平和の原理から美文と共に生み出されるかぎり、論法そのものを実現した抽象力なしには不可能だった。従って人間が感動を受け取る抽象力は美文の効果ではない。


知覚が難儀だから解説しよう。平和の原理とは万人向けのイメージといい換えられる。抽象力によって成り立っているのはガンバの大冒険で示された通りだ。なぜなら降る賽子を指示しているからだ。本当に分からなければイカサマは具体性だと認識しても良い。現時点で万人向けのイメージは降る賽子だけだ。ガンバの大冒険のイカサマから万人向けのイメージを引き出したのが抽象力だった。そして幸せが得られたし、個人的にはガンバの大冒険を思い浮かべるという日々において平和の原理も抽象力に基づいて確実視された。


君は分かるか。どれだけ素晴らしい世界が眠っていたか、僕には言葉遣いは完璧なまでに胸一杯の思いを包み込んでいる。微塵も揺るがせにはできない。もしも思考が及ばなければ僕にとってガンバの冒険のイカサマが《児童期の喜ばしい記憶》だったと知って貰うだけでも中身は同じだろう。詩歌として聞かせるならば歴史を切り捨ててはならない。抽象力の代わりに言語の展開力を活用しても物事を透き通らせるならば万人向けのイメージを掴み取り得る。


厄介なのは論法そのものの作用についての知覚だ。なぜ抽象力は平和の原理を成り立たせるか。論法そのものは地獄の論法のように邪悪ではなかった。根も葉もない噂から全てを恐怖に陥れる格好にせよ、忌まわしい噂を取り上げるだけでは一味唐辛子と七味唐辛子ほどの違いしか本当はないし、辛いのは辛いだけで、個人的には抗えない薄毛だから唐辛子のカプサイシンの効果で発毛を期待しながら口にするわけで、注意すると日常生活が題目ではない。地獄では違いは違いとして通用しないし、事実に即して客観的に噂の真偽も判断され得ない。拷問さながらに虚偽の噂から不当な印象を打つけられるばかりだからどうにもならない。加えて念入りの悪賢さは一部始終が真理だと洗脳しているし、挙げ句の果てにはそれ自体が天国だと欺瞞している。僕は断言する、地獄の論法へは甚だ遺憾だと。補足すれば裏社会の論理でもない。同一視しては内面が蝕まれてしまう。言葉遣いは長引くけれども用心するために認識を前以て取り纏めておくのも無駄骨ではないかも知れない。裏社会の論理とは何か。明かしてはならない。または触れても地獄の論法から照らし出すべきだと感じるんだ。推論の最後に結論として矛盾からそれぞれを切り放さないと思考が混濁させられてアリアドネの糸に手が届かないように出口の見えない迷路に閉じ込められる危険性こそ高そうではないか。思えば地獄の論法は「不合理」だった。合理性は神の対義語として主張されている。だから幸せなかぎりにおいて取り払ってはならないはずの「不合理」ならば人間性への麻酔薬として噴射されていたに等しい。浴びるとしびれくらげよりもダメージは致命的に大きい。ドラゴンクエストのモンスターで、小さくて比較的に弱いにせよ、十匹程の集団で襲われたらどうだろう。頼りの味方が得意技で麻痺させられてしまうし、反撃するモチベーションを大幅に下げられながら一匹ずつならば取るに足りない攻撃力から少しずつ全滅へと追い遣られて行く。絶望的な心境を免れないけれども地獄の論法はそれを上回っている。なぜなら正義が論理性と共に破損しているからだ。地獄の論理が「不合理」なのは無理な正論以外の何物でもなかったし、世界が成り立たないという立場から神を否定しているだけだ。心境そのものが絶望的な地獄の論法からすれば裏社会の論理は個人の手酷い理屈か、表社会の正義への不服の申し立てかのどちらかだろう。僕も君も知ったかぎり、人々と一緒に論法そのものへ気持ち良く向き直して構わない。さもなければ呻くべきなのか、地球の振りをして。裏社会の論理が生々しく蠢き出したのも結局は地獄の論法を知ったばかりの悲しみに他ならないかぎり、最後の一撃まで「不合理」と遠ざけるならば地球へは称えるだけだろう、むしろ。世界は成り立っているのだから複雑でも簡素でも論法そのものへ突き進むにかぎる。知覚が厄介なのはなぜか。論法そのものを理解するのは人々にとってもはやきっと容易い。地獄の論法ではないというと不思議がられるところだけが大変なんだ。論法そのものだから天国と地獄の両方に跨がっていると捉えれば間違いそのものだろう。思い出して欲しい。チョコレートクロワッサンが僕だけの好物ならば(脳味噌がへとへとのせいだ、文字数も過多な文筆によって)どんなサンドイッチでも同じだろう。食べながら皆には付いて来て欲しい。だたし捻れていた、気持ちのイメージは味わいよりも。今此処で怪しいのはソーセージだけかも知れないけれども最後の一撃まで確かに躱したはずだ。地獄の論法は誰一人として殺めようとはしないにも拘わらず、ソーセージクロワッサンにはチョコレートクロワッサンほどの魅力を感じないのが僕のせいでないとすれば君は優しいわけだし、歴史に刻まれた不幸、出会いの詰まらなさから守るためにさらに精度を上げて人生へ励むべきだろう。如何にも抽象的な響きにせよ、一言では投げ縄蜘蛛だし、イメージはグラスの末広がりの積み重ねを流れ落ちるシャンパンではないか。殊勝だ、気持ちは。口を開けば論法そのものだけど、可笑しくもとにかくさっさと思考で三色団子を串刺しにするほどにすっぱり概念を捉えるならば筋道という名の推論は精神にとって淀みなく流れていて晴れ間の小川のせせらぎとも呼べるくらい清らかな肌触りを与えていた。振り返るのは止そう、地獄の捻れた論法は噂の根も葉もない根拠付けと人々へ打つける印象との辻褄合わせこそが所以だなんて。日本人ならば芥川龍之介歯車が物語るばかりの悲しみを繰り返すべき生き方はないだろう。重々、承知でなければ誰が焼き肉を奪い去って行ったのか。不吉なんだ、自殺する理由を取り上げると。目覚めるや否や鈴鹿サーキットでF1の日本グランプリに感じ至っていた。爆走するエンジンの細く高い音色と共に頬張るカルビへの恭しさを差し置いて悩まなくても僕ならば結構だろう。だから論法そのものは野球の投球に準えると少し浮き上がって伸びる。捕手のグローブへは吸い込まれるというと可能なのは2016年に夏の甲子園を熱気に沸かせた今井達也かも知れないにせよ、思考へは依然として気持ちも優れず、僕はブログでの内部リンクを増やしたいせいだと訪問者から不断に勘違いされるとすれば正々堂々と断っておく。どちらも似ているから引き合いに出しただけだ。詩的にいって鉄砲魚の世界ではないし、水陸両用の眼差しならば鰐が気になるはずでもないと先立って弁えなくては追求できないのも論法そのもののの特徴なんだろう。真っ直ぐとは何か。もちろん捻れてはいないにも拘わらず、只単に一瞬でも誤魔化されては言葉遣いが虚しいばかりだ。全力は全力でも神経は神経だし、思考というか、せめて推論だけでも真っ直ぐに知覚できなければ論法そのものは滑稽なかぎりの鰌掬いのようにエッセンスをかくも取り逃がしてしまわずにいないだろう。


重要なのは大地に根差した抽象力だ。さもなければ平和の原理は低迷する。万人向けのイメージは記憶に由来しているけれども現場では経験だけに基づいていて内面的に築き上げられているわけだ。人間性にとって感情と思考の合一が論法そのものの基準として要求されるならば大地に根差した抽象力は衝動といって良い。すると思考に対応する能力は翻ってイメージの抽象力に他ならないし、衝動の場合と間際らしいにせよ、幸せを味わわせる想像性を支える記憶への直観として認識されるべきだ。


理論として精緻化すれば平和の原理は想像性の抽象力によって実現されているけれども論法そのものの大地に根差した抽象力を通して経験的に作用している世界だろう。


誰にも生きられてない幸せが絵に描いた餅なのもだから良く分かるし、人間性の有する二つの抽象力が感情と思考、または直観と衝動、あるいは想像性と作用する大地の経験を両方とも伴ってないかぎり、どんな平和の原理も口先だけで意味も価値もないと結論されるしかない。


銀河と遭遇した部屋の片隅で大革命は過ぎ去った。人間性の中心は壮絶な噴火を収めながら情熱に満々と過不足なく取って替えられて行った。想定したよりも言葉遣いは概念寄りだったし、取り分け平和の原理という法則を完膚なく把握することは人々にとって至難の技ではないだろうか。しかし安易に真実を説明しては自然の内奥から汲み取られた論旨を乱し兼ねない。他では必ずしも大変ではないはずだから人それぞれに気に入った仕方で受け取って貰うと良い。僕も含めて何もかも知り尽くすと得てして慢心に陥らないともかぎらないのが自我ならばおよそ戒めを込めるように思考が仕向けられているせいではないか。少しでも納得してくれる誰かがいれば尚嬉しい。祈るべき幸せが末永く続いて欲しいし、社会を心地良く探り当てたかぎり、夕闇の雲間に知恵として親身に覚えておくだけだ。

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