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些細な日常

嫌いな人間は本当は人生で役立っている

面白いのは良さを持っている、好きなだけではなくて嫌いな人間でも。だから余りに逆らい過ぎると自分こそ良さを失いながら死ぬしかなくなりもするのではないか。

地獄の道理、すなわち閻魔の悪知恵ならば流石にやはり人間を破滅させるように神から上手く作り出されていると驚く。

懇意、止めてくれれば助かるのに人間だけが確実に生き延びるのも不合理なためだろう。

人間同士でも力関係があって嫌いな人間が強いほどに人生は厳しくなるわけなので、弱いままで倒れないためにはそうした力を認めながらむしろ自分にしっかり取り入れて完全には敵視しないように努めるべきだと思う。

なぜ人は人を嫌うか

根源的には思想に反するせいで、人々は敵対する。世の中で討論会にかぎらないし、さもなければ却って真実を見落とし兼ねない。

思想は人間の存在を形成している。生死を懸けて宗教戦争でも何でも起きるわけだ、互いに嫌い合えばもはや。差別、偏見、そしていじめもそうだと感じる。

人間の存在を一定の仕方で個性的に条件付けている本物の思想とは何かを学んでおけば日常生活で役立てられるはずだ。

誰かに自分が嫌われずに済むと有り難いし、または自分が誰かを好きになるのも素晴らしい。

皆の存在を思想から捉えなくては虚しいかぎりの人生で、栄光へは手が速やかに伸びないとも過言ではなさそうだ。

日常生活に役立つ思想の掴み方

自分から見ていると他人そのものは手持ちの思想で隠され易い。好き勝手な見方では正しくないかも知れないわけだ。すると他人の思想を掴むためには先ずは相手から見なくてはならないと考えられる。

ただし他人の気持ちが分かったり、読めたりするのは、文字通り、思想ではないから精神的に理解する方法という点で似ているかぎりは注意しておかなくてはならない。

相手から見てその思想を掴めるかどうかは自分に置き換える以前に決定されてしまう。

直観や判断では辿り着けないというか、精神的に早々と追い越されずにはいないからそうした観念が得られるよりも感性にどれだけ止まって理解できるかの能力が試されると考えられるんだ。

纏めると何等かの思い込みで誤解してはならないので、つまり他人の思想は受け取ったままで良いし、最も掴み易い方法は感性ではないか。

感性は本当に重要だ

文章で表現するのはちょっと難しい。全ては受け取ったままで済むならば自分は嫌いとか相手に嫌われるなんて結果と同じだと誤解される。掴んだ思想も何一つ役に立たず、相変わらず、殺し合いへ放り込まれながら絶望だけが最後の砦みたいに勘違いされるだろう。

知覚としては表象と区別しないと感性は本当に口に出せないので、警戒しながら文章でも表現しなくてはならない。

表象的な知覚は思い込みだし、それは他人の思想には諸には繋がり得ない。または思想と呼んで良いのではないか、表象的な知覚そのものについては。人々が敵対する要因になり兼ねない、和合しないで、別々に固執するならば恐らくは――。

ところが薔薇色の人生こそ希望的な観測でも味わうのが感性的な知覚なんだ。

他人の思想を自分から覆い込まずに掴んでいるために世の中でたとえ負けていても必要な力だけは認めるように逆らうよりも取り込んで生き延びるべく日常生活に役立てられる。

実践的にいえば感性が重要なので、取りも直さず、表象と区別できるかどうかが分かれ道なんだ。

神は万物に力関係を無限に与えている。どんなに精神力を高めても人間には自然に嫌われる可能性が残ってしまう。洪水に押し流されても海のせいではいわずもがなの真実にせよ、人間同士でもしっかり踏まえられるかどうか、いい換えれば自他の見境が付くかどうかが問われるんだ。嫌われるのは相手のせいだとしても自分とは又別の思想から已むを得ないというふうに感性的に理解したい。

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