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些細な日常

人間の精神/心理のための感受性の理論

姪が治療抵抗性統合失調症でのクロザピンの投与から少しずつ回復しているようだ。使用できるか、異変はないか、効果が挙げられるか、三つの懸念を幸いにも突破しているらしくて最終手段の医療が進展している。

しかし大事なのは日常生活にどこまで追い付けるかが本当に気がかりだし、どうにも不安がられずにいない。

触れ合いについて考えておきたい

僕のそばにいれば精神を病むなんてあり得なかったはずにせよ、クロザピンで脳から精神状態が新しく変わるとしたら健康のために万全の注意を払うかぎり、従来通りで、本当に大丈夫かどうか、自己批判こそ求められてしまう。

たぶん感受性と超自我が均一化されるために気持ちが全般的に落ち着くのかも知れない。衝動そのものを抑制するのがクロザピンの精神、または心理への影響ならば概して自我の位置取りが曇りがちなはずだし、感性の動きも意志的に下がり易い。世界へは感受性から主に知覚されるという可能性が高くなると僕には推測される。

精神論的にいうと人間の気持ちは無意識と自我と超自我によって構成されていてフロイト心理学の用語が近い。超自我に理性が含まれていて感性/直観と統覚と判断力で形成されていてカント哲学の概念が鋭い。さらに見落としてはならないのが感受性で、世の中で理論として取り立てて提示されてないみたいだ。自我や感性と混ぜ合わせて把握されるかも知れないけど、詩人がはっきり口に出したりすることが多い。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子自分の感受性くらい

断っておくとだから人は精神を病むわけではないだろう。感受性だけが原因ではなくて気持ち、または内面には他にも様々な要素が絡み合って脳などの身体も引っ括めながら全体的に不調を引き起こされた結果として統合失調症でも鬱病でも捉えないと最初から間違えて一歩も先へは進めなくなりそうだ。

健康なのに悔いて頭がこんがらがるという状態ならば気持ち、または内面が人格と齟齬を来しているせいに感じる。原因は根本的に存在に含まれるから生い立ちから自分自身をしっかり見詰め直すように気持ち、または内面に基づいて人格を持ち堪えないと逃れ得ないだろう。そこで挙動のスイッチを意向から切り替えるように欲望上の快と不快しかないというとフロイト心理学の「快楽原則」にすっぽり当て嵌まるので、ある意味、人柄は非常に分かり易くて愉快だけれども一般社会で個性こそ分かり難いとすれば真っ逆さまに辛いのではないか。我と我が身を振り返っても知り得た世界が物足りないほどに主体性も怪しまれないとはかぎらない。

茨木のり子の「感受性」はどうか

目を引くのは冒頭の「心」から思考されている。認識としては自我と超自我の枠組みで心理学的な詩になっているのではないか。だから文学的に読むと意味合いは微妙にずれるし、良いところが明るく見えなくて勿体ないと思う。

文面は如何にも人間を掴んでいて内省的な響きに満ちているのに「心」の効果としての「感受性」に焦点が合わさっている。言葉遣いそのものは客観的な分析力こそ評価される。モチーフは《生理現象としての自己》が上手く著されているといって良いから妥当な認識ならば誰にでも適用される概念として哲学的に吟味されもするだろう。

思想上は人間性から内面を主張している。詩の題名にもなっている「自分の感受性くらい」の「くらい」が正に詩的な風を吹かせるけれども抜き取ると丸ごと自己分析みたいなスタイルとも過言ではない。

きっと「感受性」から「心」を捉え返した際の《知覚の余韻》こそ茨木のり子の詩なんだ。

精神について人間性から判断して初めて感受性が直観される。すると感受性は元来から理性を志向していると分かる。理性に心が含まれるどうか、人間性に相応しい認識力かどうかが無駄なく念じられるかぎり、思考上、いい換えると心の支えが感受性なんだ。

茨木のり子の「ばかものよ」は詩の全てが人間性ならば主体性へ呼びかけている。つまりしっかりしてくれと皆に頼んでいて自分へは他には何も頼れないと告げている。勇ましい。イメージは胸を張って生きるわけで、言葉遣いから詩情ならば人々へは自立するように促していると受け留められるし、考えたくなる。

精神障害、または心理疾患で重大なテーマが健康的に自立できるかどうかという日常生活への復帰なので、茨木のり子は自分の感受性くらいで世の中に過激なメッセージを送るけれども客観的な分析力に由来する観察眼/詩人の温もりにかぎっては甚だしく興味深い。

自制心は超自我から存在可能だ

僕にとって姪は感受性と超自我の関係性から端的に把握される精神状態とすると理性を広げる触れ合いが必要だろう。大変なのは認識の仕方というか、精神状態の形相が入り組んでいて心理学の超自我と哲学の理性と人間学の感受性を三つとも実質的に理解できなければ思考が空転するし、知覚も滞らざるを得ないところだ。理性が広がるかぎり、それを包含している超自我の作用が増して自我と無意識を感受性に即して生成する可能性がある。すれば精神、または心理への基礎付けにおいて自制心が芽生えて日常生活は存在からさらに力強く安定するのではないか。

いい換えると内面的な実在感(観念性)が身体の持続から時空を会得するほどに人間性を制御し得る能力を精神的に、または心理的に強化するようだ。死の訪れは本質的には身体の持続の停止によって確認されるけれども内面的な実在感も人間性のそうした能力としての自制心を持たないままでは霊魂と同じように異次元を殆ど彷徨っているばかり、およそ想像上の観念連合の一角と推定される。霊媒師を通じて憑依する物事と似た仕方から世界が人生に的確に把握されるためならば人間にとって感受性が超自我から特定されなくては確保されなかったと概念化しても良いだろう。

自制的な形相因が感受性の役目だとすると日常生活では超自我のそこから存在を生成する特徴こそ有用そのものとも納得されて来る。

内面上、自己の発生は存在に対応していて感受性が個別の感覚として意識的に受け取られる工夫というか、物事へ応答した因果律の推移なので、現実的には流動しながら捉えられる。自制心という一つの能力が人間性の隅々まで到達したかどうかを《生存している実相》が自己なんだ。自覚された世界においては主体性にせよ、社会的には自由意思と切り放せないとも理解される。他者に基づいて自己意識が相対的に確認されるほどに人格も多く成り立つと策定されるようになるだろう。個別の感覚は客観的な状態(自制心よりも遠い)から自由意思を介して主観化されるかぎり、対自性を得るかどうかを経験済みの対他性と共に相関しながら人格に精神、または心理から歴史的な超越性(必要なかぎりの方面)に準じながら埋め込んで行くのではないか。さもなければ人格は自己へは充当されず、思考しても認識力は自己自身に相応しく引き出され得ないし、主観化も個性ならば薄いように比較的に弱いままに止まってしまうはずだ。

理性は働く知性によって広がり得る

人間の精神、または心理の健康のために肝心なのは理性を如何に広げられるか。感受性と超自我の関係性を自制心における絆として深めなければ後者に生成される存在へ前者が知覚する対象は追い付かないはずだろう。死と霊魂のように次元が噛み合わず、それぞれが実在論的にちぐはぐなままでは生きながら誰もきっと苦しみを減らせないかぎり、理性だけが内面から気持ちを安らかにしてくれる。

知性が働けば理性は感受性から超自我へと自然に及び付くはずなので、僕はスピノザの方法から学んだけれども素晴らしい認識を受け取るほどに速やかに姪は自立すると予想される。

そしてこのような期間は、最初には稀であり又はなはだ短時間しかつづかなかったけれども、真の善なるものが次第次第に私に明白になってきてからは、その期間がよりしばしばになり、且つより長くなった。

バルーフ・スピノザ知性改善論(畠中尚志訳)

僕も詩を丸投げにしては駄目だ。永遠の優しさで触れ合っても実感から味わわせるように仕向けないと人間性から心ばかり膨らんで感受性の根っこを押し潰し兼ねないから超常的な祈りが欠かせない。

医療現場ならば恐らく等身大で過ごせるように努めるかも知れないし、一般的には自問自答を繰り返しながら習慣から日常生活に慣れ親しんで行くのが最も適切な、正しく用心深い処置かも知れない。

抽象的にいって精神障害、または心理疾患は自制心の喪失として自分自身で日常生活に存在を把握しない(世界にどんな能力も知覚し得ない)かぎりならばいつでもどこでも変調への恐れが絶えないし、改めて取り戻すためには人間性において知性がそれこそ鍵を握っているようなんだ。

現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛などと同様に、能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ。

バルーフ・スピノザのエチカ(畠中尚志訳)

スピノザの方法によれば知性は神の本性を表現する属性(能産的自然)ではないから認識力に拘わらず、人間(所産的自然)は生きるままに重宝しないか、剥奪されても仕様がない場合があり得た。

姪は軽度の知的障害だから本当に厳しいし、理性が大きく広がらないと社会への適合が難しくて自活するまでには至らないかも知れないにせよ、最低限、安らかな気持ちへは連れて行かなければ僕が貧乏なのと同じだから瀕死の毎日では余りに悲し過ぎるかぎり、まさか不幸の憂き目だけは断じて逸らすべきだ。

感じ返して全てを根源的に示し出すならば知性の有無と認識力の程度を人間観察の指針へ据えておくと災いそのものは免れたかも知れなかった。どんな人にも相応しい触れ合いの方策はないわけだから幸せを望むかぎり、思考から満遍なく世界を知覚する気持ちが平和にせよ、個性だけではなくて日常生活も加味するしかないだろう。相手が人間かどうかにかぎらず、もはや事物へは偉大な自然の別名に他ならないと心から綺麗に弁えながら柔軟に取り組むのが良い。

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