秋葉原通り魔事件の加藤智大の性格は短気そのものだった 結城永人 - 2017年5月5日 (金) かつて秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んで刃物を振り回しながら何人もの死傷者を出したという秋葉原通り魔事件があった。 加藤智大/僧侶が供養続ける 秋葉原無差別殺傷事件から10年(18/06/08)|ANNnewsCH 犯人の加藤智大は現行犯で直ぐに捕まったけれどもテレビのニュースで観ながら本当に可哀想だし、被害者も本当に不幸だと感じた。 振り返ると何だったのか。普通の人が只単に暴れ捲っているという印象が強くて日常生活で異様なまでにストレスを溜め込んだ結果だと理解した。考えてみるとしかし驚くべき状態だったわけで、ストレスの恐ろしさを知るためには詳しく明かしておくのも損はない。 秋葉原通り魔事件の切欠は加藤智大のインターネットの掲示板に成り済ましが現れたらしい。気に入っていた掲示板が廃墟になって誰にも相手にされないみたいな窮地に追い込まれながら一つの凶行に及んだんだ。 本人は成り済ましへ心理的に復讐するつもりだった。不可解な発想というか、言葉遣いだけれども生活そのものを引っ括めて掲示板を捉えていたんだろう。掲示板なしに生きられないみたいな気持ちがあったとすると分かり易い。成り済ましによって何で自分だけが邪魔されなければならないのか。生活そのものが成り立たないとすればそうした全体を条件付ける社会へ怒りの矛先が向けられる推論は不合理ではないし、成り済ましへ心理的に復讐するというイメージは湧いて来る。 殺人ほどの重大な事件の動機としては短絡的で、取るに足らない感じがするし、どうしても耐えられないかぎりは自殺しても気持ちは同じだったかも知れない。 加藤智大の人間性についてはなぜ他殺を敢えて選んだかに尽きる 調べると以前からちょっとしたことで会社を直ぐに辞めるというふうに短気だった。何回も繰り返しているから正しく短気そのものだったと断定せざるを得ない。 だから気に入りの掲示板を成り済ましに邪魔されてどうにも耐えられないままに社会へ自殺よりも他殺を選んだようだ。 短気はなぜ起きるか。簡単なことが上手く行かないのが腹立たしいせいだ。本当は上手く行かないかぎり、簡単なことではないし、自分にとって困難だから気長に努力するしかないけど、しかし短気だと通り越してしまう。腹立たしいばかりの状態から言動が上手く行かないことを破壊するという向きへ移行する。 加藤智大は短気そのもので、人々の殺戮を招いたとすると実生活では自力を過信しないように適切に思い止まらなくては行けないだろう。何にせよ、できけなければならないことを普段から当たり前に増やさないでおくという認識が求められる。無理に頑張っても仕様がないわけなので、たとえ事件を起こさなくても怒り狂って過ごすのは詰まらないし、努力するのが遅れては困るし、避けたい気持ちがする。 日頃のストレスも溜まる一方では不健康だから早死にするしかないと予測される 重要なのはやはり自分らしさだ。何ができるか、人間的に確かに。いつも現実を直視して本当に自力でできることだけをコツコツやり遂げるような生き方が素晴らしい。一つの幸せな存在から発する空気が澄んで来ると周りの人たちも好意を持つに違いなさそうだろう。味方として助けて貰えれば尚更と有り難いし、恵まれた人間関係が得られたとはいうまでもない。 加藤智大も気長だったら秋葉原通り魔事件とは正反対の人生を送れたのではないか。想像すると涙が出て来る。ストレスに覆い尽くされる内面は命取りの災いだ、人間にとって。ゆめゆめ警戒を怠ってはならないし、平和に暮らすのが良い。 参考サイト【現場から、】平成の記憶、平成最悪の“通り魔”〜捜査幹部初証言 コメント 新しい投稿 前の投稿
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