七星天道の汚れて苦労する命の営みには神の視点から平家物語の憐れみまで考えられた 結城永人 - 2017年5月17日 (水) 鈴蘭に七星天道が付いていた。好運な感じがする、ラッキーセブンなので。しかも赤だ。情熱の炎の輝かしい気持ちで、人生の期待値も上がらずにいないだろう。姿形も丸くて小さくて可愛いから嬉しい。 去年も見付けたけど、写真には残せなかった。ちょこちょこ動き回るからα5100ではタッチパネルの追尾フォーカスで狙うしかない。背中にピントが合ってくれたから良かった。日陰なので、描き込みは緩くても仕様がない。Touit 2.8/50Mのマクロ撮影ならではの被写体が背景から浮かび上がるような仕上がりを得たからとても満足している。 雨が多くて鈴蘭が汚れていて七星天道もそうなので、独特のイメージを認める。いうと花も虫も苦労している。ヴァン・ゴッホの馬鈴薯を食べる人々と被るような労働の崇高さを人間にとっては計らずも受け取ってしまうし、そして命の営みの地道な余りのリアリティーに気付かされる。 なぜ神は生き物に試練を与えるのか スピノザ哲学ならば無限の可能性として自然に理解されるだろう。鈴蘭も七星天道も全く汚れないわけには行かないし、苦労する場合があると否定できない。悲しみについて免れるためには努力するしかない。 考えると幸せへ向けては人間が最も有能かも知れないけど、しかし世界を変えるだけが喜びではあり得ない。汚れて苦労しながら神への祈り、または自然への理解を失うならば酷薄なのも事実だ。どんな幸せも本当は奇跡でしか果たせないかぎり、すなわち無限の可能性という被造物から汲み尽くせない神の視点で世界を捉えるならば有能も全て相対的な認識に数える他はない。喜びを掴んでも完全に正しいのでは一つの思い込みだろう。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。裟羅双樹の花の色、盛者の必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 平家物語の巻第一/祇園精舎の事|日本文学大系 : 校註 日本では平家物語の栄枯盛衰に命の営みを習う。強ければ何もかも良いと上手く行きはしないはずだ。自然の大きさから人間とは何かを捉え直している。長続きしない喜びだけではなくて認識の核心は「必衰の理」だから世界の本質に触れるほどの言葉遣いになっていた。人生の物悲しさにおいては憐れみを基調とした日本的な情緒にも通じるんだ。 山の中で七星天道の良い写真が撮れたと驚いた。鈴蘭と共に汚れているから美しく表現するのは難しいにせよ、失敗したと退けたくはならなかったし、Photoshop Expressのトリミングと調整と修復と編集しながら纏め切った。心に染みる一枚が素晴らしいと写真撮影の勉強になった。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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