アルトーは晩年に統合失調症を患っていた可能性が極めて高い 結城永人 -2016年12月4日 アイルランドへ向かった四十代前半のアルトー(作家/詩人)がダブリンでホテルの部屋代を払えなくなって本国のフランスへ強制送還されるという事態に陥った。船に乗っているところで船員に襲われると感じて本人は身を守るために反撃するつもりだったけれども周りからは常軌を逸していると判断されて自宅へは帰り着かずに精神科へ入るようになった。 統合失調症に当て嵌まる強迫観念の攻撃 Self-portrait by AutAntonin Artaud / Public domain フランスのロデーズの精神科で、結果的には二年くらい入院して様々な治療を施されて開発されたばかりの電気ショック療法をまるで実験台のように受けたりもしていて晩年のアルトーを考える上では非常に大きな場面の一つに数えられる。 現今では電気ショック療法は安全性が改良されて電気けいれん療法と呼ばれているけれども危険性が小さいわけではなくて禁止する国も増えて来ている。 電気けいれん療法の治療としては重度の鬱病を主な対象としているようだ。 アルトーの場合は船員に襲われると感じた精神が病んでいたとすれば強迫観念に起因しているから統合失調症の可能性が極めて高い。人々に監視されているという変調が生じるので、そこから自分の身が危ぶまれる、生活が誰かに脅かされると感じてしまう。船の中での一件は精神病の症例とすると統合失調症が当て嵌まり易いんだ。 ロデーズの精神科で電気ショック療法を受けたのは基本的にはあり得ないはずだけど、しかしながら開発されたばかりで良く分かってなさそうな二十世紀前半の治療だし――アルトーは何十回も麻酔なしに受けて背骨を負傷したともいわれる――主治医だったフェルディエールがどのような診断を行ったかも資料が少なくてさらに追求するにはちょっと及ばない。 気になるのはアルトーが自分の名前というか、名字を母方にしていたらしい。元々は父方でアントナン・アルトーだったのにロデーズの精神科ではアントナン・ナルバと自称していた。 なぜなのか。資料によるとアルトーは精神科を転々としていてロデーズに至るまでに幾つか他のところにもいた。その間に名字をアルトーからナルバに変えていたらしい。 アルトーとしては母方の名字から自分の存在を大地に根差すように捉えたのかも知れない、たぶん。 幼少期の髄膜炎の治療の後遺症で、生涯にわたって精神の苦しみを余儀なくされたといわれる人なので、それを考え併せるとアルトーの晩年を理解することは非常に厳しいし、たとえ統合失調症を患っていたとしても一般的に把握してはならないわけだ。 アルトーの人生そのものは《思考の不可能性》がキーワードになっていて二十世紀のフランス現代思想(フーコー、デリダ、ドゥルーズなど)に超大な影響を与えてもいた。 精神の苦しみと共に生きるとは何かが常に問われているので、何等かの変調した状態を物狂おしくも加速させるためには万物の帰着するべき与件(母なる自然)に身を委ねるしかないはずだ。自分の存在を大地へ打ち込ませる必要性が直観されて社会的な側面から人々に気持ちを表現するために母方の名字を欲しがったのではないか。 詩人だから言葉遣いに拘泥ったと思うんだ Antonin Artaud jeune by Agence de presse Meurisse / Public domain 世間的に然して意味はない。母方の系譜が大地に基づくというか、存在を根本的に生み出すわけではない。さもなければ父方の系譜がなくても人間は可能だろうから人工的に生み出されたクローンでもないかぎり、人間は父方と母方の二つの系譜から成り立っている。どちらかの名字を選んで精神も調子が良くなったり、悪くなったりするとは認められない、現実としては。 人間にとって無意識ならば名字の変化で気分が上下するかも知れないし――両親の離婚、自分の結婚、または養子縁組から起こり得る――悲しく下がれば精神を病む切欠になると予測されるにせよ、アルトーの晩年は存在が大事なので、言葉遣いの無意識の効果は詩的でも遮断して考えるべきだ。 母方のナルバというイメージはブルトン(詩人)が正確に指摘したようだけれども「向こう側へ行くこと」が求められたせいではないか。 統合失調症ならば物狂おしさを抱えた存在において生きるとは何かを知らなくてはならないので、この知覚そのものは普通の患者とは全く違って精神の苦しみと共に歩んで来られたアルトーならではの奇跡的な感性に基づいているはずだ。完全に発症しながら自制心を木っ端微塵に失いながら生活を掴んでいるために神とも呼べるくらい驚かされざるを得ないところだ。人間精神を超越しているのは少なくとも間違いないだろう。 念のために繰り返すけど、他の患者にはできないので、統合失調症にかぎらず、病んだ精神のままに存在から言葉を放つことは本当に無理だ。気分が悪いというふうに精神の自己表現を取るのが自然だし、自然ならば病んでなくても結果は同じだけど、存在から言葉を放つことはたぶんアルトーにしかできなかった。 自己表現の核心が思考上の世界ではなくて《思考の不可能性》に由来しているからアルトーの言葉遣いは厳密にいうとイメージでは全くないし、存在こそ無媒介に(知覚が生活に阻まれず)指し示しているキャラクターが大きな特徴/人間精神の根源的な実例として素晴らしいと芸術的にも学問的にも正しく捉えられてしまうわけだ。 人間に器官なき身体を作ってやるなら、 人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。 そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。 まるで舞踏会の熱狂のようなもので この裏とは人間の真の表となるだろう。 アントナン・アルトーの神の裁きと訣別するため(宇野邦一・鈴木創士訳) 最晩年の作品になる。読解において注意しなければならないのは精神の苦しみから存在が掴まれて一つの哲学として体系化されるために「神」が叫ばれ出した。アルトーは《思考の不可能性》によって整合的に体系化されない哲学を「器官なき身体」と呼んでいるのではないか。精神の苦しみと共に生きる自分自身の真実を認識していると感じられる、完膚ないまでに美しく。 加えて哲学を反対の立場で持つかどうかがかつてロデーズの精神科を含めて思想的に究明されるべきだったとも推測されてしまう。 自己分析として神の裁きと訣別するためから考え返せば精神の苦しみを積極的に引き受け出したせいで、生活にも支障を来すほどの周りからは精神を病んで恐らくは統合失調症だと懸念される状態へと入って行ったように正しく頷かれる。 アルトーは「真の自由」、ただし「裏」を会得するために知性的な回復、または概念によって意義付けられた精神(人生の観念)を拒んでいたとするとどうしてなのか、なぜ必要なのかが明らかに問い質されずにはいなくなる。 精神の苦しみと共に生きる気持ちは本当で Antonin Artaud - Film Electrochoc|comtegepetto 何一つ思考できないにも拘わらず、生きられるとすれば人間には精神とは無関係な存在が含まれていて身体でもなくて僕から見れば心魂が全てを支えているわけ(世界の本質/永遠の詩の端緒)だけれどもそんなふうに物事を知覚するしかないだろう。精神なしに人生は可能だとアルトーは経験したと思想的にいって良いと思う。 僕は永遠の命を抱えている(柔らかくいえば真実を素晴らしく愛しているのかも知れない)から物事を人間存在の本質を通して精神なしに理解できる。世界がどのように構成されているかを言葉によって知覚して行く生活の流れの中で精神は呼び込まれる。頷くしかないのは神の思し召しだ。僕が言葉を放って精神を備えていると真っ先に決定するのは人間ではない。心魂の生みの親としての自然そのもの(大宇宙)に他ならないためだ。 ところが精神なしの人生の意味合いがアルトーは又別だった。何よりも存在から言葉を放つことができたために気持ちが向けばきっと人生も精神と切り放して存在としてのみ知られ得るはずだった。 生活上、自己表現の方法そのものが精神の外側に位置付けられると異様に苛酷だと想像されずにいない。神ならばいざ知らず、まさか身体は無限ではないから人間にとっては時空が容易くは保てなくなる。内面性がやはりズタボロに引き裂かれる。生きられる確率は途轍もなく低そうで、苦しみは精神の外側で殊更に激化されるのではないか。 アルトーは晩年に統合失調症の可能性が極めて高いというのは身体において神経を苛まれたと根本的には考えられるせいだ。 一般的には精神の内側で病むはずだし、その結果として脳がダメージを受けて悪化する統合失調症ならばアルトーには外傷性の傾向があると思うけど、特筆するべきなのは怪我や他の病気は被ってなかった。 なので存在が精神を飛び出してしまって内面性を諸に痛めた結果として船の中での一件ならば強迫観念のような症例が現れて来たわけだ。 アルトーはロデーズの精神科でフェルディエール医師の治療によって父方の名字を取り戻したといわれる。 病院での真相については何ともいえないし、現今からすれば診断そのもの、治療そのものに難点が多いようなので、気になるのはとにかく思想的な方向付けが実際にどうなるかだ、アルトーにおいて。 内面性によって存在を裏打ちするためには精神が必要なので、というのは世界の諸々の観念から構成される《精神の場》として内面性は考えられるためだ、精神の外側で生き続けようとするならば存在の観念が知覚されなければならないだろう。 もちろん不合理だ。観念は精神を構成する要素だから知覚されれば存在も内側に把握されざるを得ないというか、それが人間の基礎的なイメージだし、一つの主観性から自我も芽生えて人格も花開けば功徳も実を結ぶかも知れない人生が齎されるわけだけど、アルトーにとっては《思考の不可能性》に則って 容認してはならない生き方だったと察せられる、しかしながら。 アルトーは存在の観念から精神の内側に戻ってロデーズの精神科をついに退院したのかも知れないけど、精神の外側が問われるべきならばもはや透き通った存在が考えられたのではないかという感じがして非常に興味深い。 きっと万物の存在そのものは世界と合致している。自然体として生きられれば内面性は痛まないだろう。 何しろ、僕自身がそうなので、世界と合致した存在/自然体を有するかぎり、もはや内面性も透き通っているから大丈夫なんだ。時空は無限に広がって感じ取られるばかりで、たとえ存在を知覚しても身体が拘束されるように神経を苛まれはしない。花畑に近い、硝子細工の。 アルトーは精神と存在の観念の食い違いから内面性を清々しい空気として垣間見たのではないか。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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