いじめは平和によって救済される本質を持つ 結城永人 - 2017年2月15日 (水) 人々は知らない、平和とは何かを。だからいじめは行われる。世の中の紛れもない真実だし、知覚の大前提が倒置法で表現されなかったらおよそ猿でも分かる日本語でしかなかったに違いない。 平和を知っていれば人々はいじめを行わなかったはずだ。注意すると戦争と対置した平和の心だけがいじめを救済すると僕は考えているのではない。平和が争闘と対置されるかぎり、争闘の一種としてのいじめが平和そのものによって起こり得ないと読んで聞いて貰わないと困る。 すなわち戦争の対義語の和平からはいじめの本質は掴まれないのではなかったか。僕は平和の心で人々を救済するつもりはないし、世の中を改善しようともしていないので、神と天使に祈って気がかりなのは何よりも争闘の一種としてのいじめだと断っておく。 考えてみると平和を知らない誰かがいじめに巻き込まれるだけではなく、知っていてもそうなのは本当は知らなかったわけだ。だから平和を知っても無駄だと諦める必要はなかったし、もしも憔悴しながらいじめを避けられない生活を強いられているとしたら気持ちを盛り返すべきだろう。 逆立ちして心の平和を唱えても虚しいのは僕も分かっている。気を取り直して平和の心が何の役にも立たないと落ち込んだのはなぜかを明かすならば戦争と対置されたせいでしかなかった。戦争を免れるために重要なのも和平なのに平和と勘違いされるしかないのか、そのせいだろうけれどもいじめは社会的に詰まらない問題として戦争よりも著しいまでに避けられないという烙印が押されてしまっているんだ。 分かり難ければ大きい悲しみは小さい悲しみから生じるので、免れない戦争からすれば避けられないいじめは遥かに認め易かったと噛み砕いても良いだろう。 本当に笑ってしまうかも知れない。どんないじめも争闘の一種としての平和が理解されるかぎりは起こり得ないし、人々は完全に救済されるようだ。 口振りとしては平和の一つの概念に過ぎないから他の多くの概念と同じように多義的に混濁してすなわち世の中に揉まれながら無駄死にするに決まっていると嘆かれ得る。 僕は試したいと願う、いじめを救済する平和が確実かどうかを。繰り返すけれども諦めるのは心の平和が虚しいためだ。平和の心から考えると逆立ちしても駄目なので、何はなくとも戦争と対置しない平和、和平ではない平和そののものを掴んでいじめを見詰める人々が実際に巻き込まれるかどうか、避けられない事実が得られるとは予測されなかったわけだ。 本質的にないとすると平和がいじめを救済するのはなぜかが問われてしまう。 人参はいう。一人で喜んでいるだけの幸せではないか。馬鈴薯はいう。せめて君だけでも平和に暮らせるならば世の中もそれだけいじめを抱えなかったことだろう。茄子はいう。夢に入り浸って孤独でも良かった。キャベツはいう。正しければ全ては上手く行くはずだから寂しさを悔いるな。 いじめはどうして平和によって救済されるのか。野菜のように僕はまるで気持ちを秘め隠したまま、人々へは黙っておいても良いと思う。ただ試したいだけだ、真実を。そして認識も出だしからすっ転んでいたわけだし、今此処からいい直すには余りにも面倒臭いというか、平和がどうのこうという部分は消し去る他にはなくなるだろう、表現上。 どちらかを選ばなければ無理だ。平和が人々をいじめから遠ざける理由にはちょっと触れただけでも難しく感じる。サイトのアクセスアップを目論みながら猿でも分かる日本語で教えることなど僕にはできないし、どうしても必要ならばForevermoreの全ての詩集から命題の核心は得られるかも知れないにせよ、具体策としてはいじめを争闘の一種として覚えて貰うだけで十分に余りあるほどの平和の訪れが味わわれるのではないか。 場合によってはいじめが平和によって救済されるというイメージがまだ湧いてない誰か、僕の教えている全てを取り違えている手のために幾らか付け加えておくべき世界が残されているとすれば心の隙間は怪しまれて背かれる以前に詰めるべきだ。 すると恐ろしいのは僕と同じように自分がかりにいじめに巻き込まれたら実際に大丈夫なのかどうかが考えられているのではないか。 当事者はもちろんのこと、傍観者としてもいじめを避けられない気持ちは耐え難い苦痛だった。または想像するだけでもうんざりだろう。いじめは考えないにかぎるみたいな態度を余儀なくされそうなくらい恐ろしいわけだから救済されるにせよ、あり得ないし、イメージも湧かないんだと僕へは丸ごと近寄るべき道理こそなかった。 確かに手を打つまでもなく、考えないいじめは有用かも知れないけれども争闘の一種としていじめを正しく考えても結局は同じだと分かって欲しいと僕はいいたい。 かりにいじめに巻き込まれるならば免れるために好きなのは空っぽよりも平和ではないだろうか。 空っぽというけれども実態は考えてないから自分こそいじめに加わらないともかぎらない。仲間になれば許されるかも知れなかった。昨日の敵は今日の友みたいに他の誰かへのいじめを逃げ道にしながら生きてしまい兼ねない。それではやはりいじめは根本的にはなくならないわけだし、ひょっとすると最初から諦めていて平和とは何かを誰にも教わってないまま、やらかしてしまっているんだ。 ところが好きなようにすれば危険性が減る。平和を覚えて生きるならば只単に忘れるにせよ、争闘の一種と手を繋いでは自己矛盾に陥るから不可能ではないか。誰もいじめには加わらないと僕は思う。 人々がどこまで救済されているか、それこそ試したいわけだけれども自己矛盾に陥ればイメージが湧いてなかったに等しいし、いじめとは何かについては何一つ分からずに考えてないのと結果も同じになってしまいそうなんだ。 たぶん無理だ、平和を知っていれば。雛は可愛らしく笑うけれども決め付けるわけには行かない、僕としても。真実は掴めば終わりではないので、手放されて知らないも同然の後々のいじめに荒んだ人生の予定外の可能性まで踏まえれば断言しても本当に眩暈でしかなくなる。 分かり易いし、平和があればいじめがないのは事実だけど、僕は平和とは何かを知らないと救済されないし、はっきりいって本当に知って正しく生きられればどうもうこもないと本質的に考えているわけなんだ。 小さな悲しみだから戦争などよりは避け易い、普通ならば比べるまでもなく。下世話にいえば移動できない生活のせいだ。救済するならばいじめの加害者と被害者を切り放せば良いわけだから誰でも喜びには目覚めている。社会に抜け道は幾らでもあるだろう。 一般的にはそれができないからどうのこうのとなりがちだけど、平和とは何かを知らないと存分には避けられないと直ぐに分かって貰えるのではないか。 しかも面白いのは生活を移動する必要もなさそうなんだ。平和が良いから人々に自然に広まるためではない。学校でも会社でも花畑になるからいじめが救済されるのではないとすると不思議だと驚く。 平和が素晴らしい原因も猿でも分かる日本語では全面的には伝えられないにせよ、敢えて他愛もなく仄めかす程度で構わなければ人々がいじめに抵抗した存在の目覚ましい喜びが強化された精神性のためだろう。 何とかして避けたいし、救済される気持ちがなければ僕も争闘の一種としてのいじめをまさか持て余さざるを得ないわけなので、受け取るべくして受け取ったかぎりの賢明さから誰でも光の透き通ったベールに包まれるように雰囲気が変わるのではないか。 自分からも他人からも寄せ付けない。救済されるいじめの本質が平和に含まれているのは他でもなく、反対に求めない気持ちから頷かれるのは確かだし、大丈夫だと思う。 平和を知らなければいじめはなくならない、人々にとって。そして当たり前だから本当かどうかが大事なんだ。いじめは争闘の一種だと理解しながら否定すれば他には何も要らないし、望み通り、人生は平和へ向かって突き進むだけだろう。救済されるためには真実を認めるべきだ。 コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント