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コットの幻想的に心を潤わせる絵の真実

コットは十九世紀のフランスの画家で、当時、絵の主流だった新古典主義の終わり頃に出て来ていた。


ピエール・オーギュスト・コットの春

新古典主義は元々は先代のロココ様式というバロック様式の流れを汲んだ雅やかで非常に装飾的な絵に反発して生まれたといわれる。宮廷芸術とすると王室が栄えていた時代を象徴していたわけだけどもフランス革命と共に没落して行く流れの中で絵の世界で取って換えられたスタイルが新古典主義だった。


新古典主義は元々は先代のロココ様式という雅やかで装飾的な絵に反発して生まれたといわれる。宮廷芸術とすると王室が文化的に栄えていた時代を象徴していたわけだけどもフランス革命と共に衰退して行く流れの中で取って換えられた絵のスタイルが新古典主義だった。


折下、音楽ではモーツァルトが王室を離れて初めてプロを目指していた時代だったし、奇しくも芸術家としてそれぞれの生き方が感性的に響き合ってしまう。逸話によれば児童期にシェーンブルン宮殿で出会って結婚を無邪気にも申し出たとされるマリー・アントワネットがオーストリアからフランスへ出向いてルイ十六世の王妃に就いてからまさかのギロチンで首を切り落とされてしまった頃――戦乱に次ぐ戦乱の大渦中――と重なっているんだ。


フランス革命から皇帝の座に躍り出たナポレオンを称揚する画家のダヴィッドによって新古典主義の絵も一つの様式として正しく新しく確立されたらしい。アルプス越えのナポレオンナポレオンの戴冠式がそうした最高傑作に数えられる。モチーフはドラマチックなまでに迫真に表現されていて先代のロココ様式の雰囲気はもはや見る影もなく、人々にとって思い返される触りすらも消し去られたようだ。


以降、芸術アカデミーでダヴィッドの作風を受け継ぐ弟子がどんどん活躍してサロンという独自の展覧会も花盛りを迎えるばかりで、フランスに新古典主義の絵の時代が訪れるに至ったのではないか。


コットはカバネルブグローに師事したとされる。二人とも芸術アカデミーの画家で、ダヴィッドという巨星からはっきり示されたような新古典主義そのもののスタイルだったけれども幻想的な印象が幾らか見受けられる。味わいがユニークだから自然にあるがままのスタイルを尊重するという点では絵のモチーフの扱いが特徴的だったんだ。宗教や文学、または史実を題材にしながら人間の情感こそしっかり捉えるような方向性が察せられる。なので二人に師事したとされるコットは幻想的な印象こそ掴んで鮮烈に打ち出しながら絵を描いたのではないかと推測される。心潤わされるほどに良い絵だと唸るし、生きた夢を目の当たりに覚え込ませる。


代表作というか、調べると作品としては肖像画を多く手がけていたたらしいけど、ところが引き付けられるのは専らそうではなかったんだ。むしろといった現実離れしたモチーフの世界こそ堪らなく魅力的だったので、考えると幻想的に心潤わされる絵にぐっと近付いていてコットの自分らしさに出会えてしまったせいだろう、余りにも速やかなまでに。


個性としては芸術の喜びを実地に捉えているのではないか。先達のカバネルのヴィーナスの誕生やブグローのヴィーナスの誕生からは神話的に集約されてもはや形而上学だったかも知れない。一つの真実が格調高く示されていてそれこそ新古典主義が再評価する中世のルネサンスや古典主義といったスタイルを完全に追い越すくらい恍惚感に包まれている。例えばボッティチェッリヴィーナスの誕生でさえも芸術の喜びというテーマからは及び付かないのではないか、古今東西で稀に見る逸品中の逸品と目される絵に違いないにも拘わらず。美しさを司る女神のイメージを取り上げるならば過去の画家は自由度が下がって堅苦しく感じられてしまうから新古典主義のリアリティーは相当に凄まじかったはずだ。しかしながらコットは恍惚感に包まれた芸術の喜びを改めて実在化しているとも過言ではない。人間が絵の中心に置かれている、崇められる神々の化身は姿を眩ませながら世界から引き下がって全てを影で支えるように。


ピエール・オーギュスト・コットの嵐

コットは森が素晴らしい、一見して。非常に詩的な気配に満ちていて手がけた絵としては部屋の中の肖像画よりも注目される所以かも知れないけど、とにかく味わいがで背景に止まらない。モチーフの男女、テーマの恋愛を押し退けるまでに何かを主張しているように感じられてならなかったんだ。


結果、だから美しさを司る女神という芸術の喜びのかけがえもない象徴が溶け込んでしまっているためだろう。


コットの森は躍動している、密かに二人の幸せを抱き抱えるように。崇高さから祝福された印象を与える。空気が澄み切っている、詩的にいえば。イメージは祈るべき自然そのものの有り難みが全面的に繰り広げられているわけなので、もはや心潤わされるほどに幻想的な絵だと見出だされたのも久後に間違いなさそうだ。


只単に恋愛が重視されたせいではないのではないか。男女は画家とヴィーナスとも呼べる。なぜなら女性がヴィーナスでなければ森は詩的に目立たないからだ。女性がで輝かしく見えるのは芸術の喜びを体現しているせいだし、きっとヴィーナスのような印象を通じてコットは反対にこれはどこかあり得ないと、背景の生命感を宿した森からこそあっさり紐解かれるというふうに人々の眼差しへ仕掛けた。


雰囲気を探れば他に行き着くところもないのが絵なんだと世界にとってのイメージの成り立ちを考えさせられてもしまう。


恋愛もするととびっきりに受け留められるべきだ。本当に奇跡的なのは女性のヴィーナスの風情だろう。の微笑みはダ・ヴィンチモナリザも彷彿とさせる。完成されたのがルネサンスならばやはり追い越すのは新古典主義だったと今再び指摘せざるを得ない気持ちがする、カバネルやブグローに受け取られた恍惚感に続けとばかりに。


対象は客観化されていてコットは微笑みの魔力を画面の外側へは放出しなかった。しかしだからといってインパクトが全てなのか、芸術性において。人類史上、画家として抜きん出たダ・ヴィンチも呆れるほどに素晴らしいながらひょっとしたら溺れていて掴み損ねていた真実が夢のようにまるで転がっているとコットから教えて貰える。


何しろ、魅惑の微笑み、そしての真剣さもヴィーナスという美しさを司る女神に由来しているようなので、詩的にも森から崇高に祝福された女性が恋愛によって体現しているかぎりの効果だったし、つまり世界から確実に隈なく照らし出されてしまった。


奇跡的なのが本当に謎めきだと思う。コットは人々に恋愛でも芸術でも当たり前の良さを人生で幸せに繋がる必要性として見定めながら絵に打ち出さずにはいられなかったのではないか。浮き立ってはまるで羽根付きの靴という感じがする。画家として生きるために自己表現に取り込みたかったとすれば称賛しない手はないだろう。


物事を嘘偽りなく把握するという新古典主義のエッセンスからはの森に輝やかしい女性の風情こそ芸術的に真骨頂ではないか。


僕が気に入るのも同じだから参る。見ているのはなぜか。巻き込まれていた、全ては知らない間に。コットの絵が告げている本音は素晴らしくは刹那の思いと少しも変わらない。もはや驚かされるばかりの経験を抱えながら沈黙せざるを得ないかぎりなんだ。考えるならば言葉を探しに出かけるしかない。

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