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ショパンの幻想即興曲が生前に発表されなかった理由

ショパンの作曲した音楽で最も印象深い作品の一つが幻想即興曲即興曲第四番)だと思う。



僕は大好きなんだけれども他でも聴かれることがある。アニメのタッチで上杉克也が浅草南への思いを抱えながら先ずは最強の恋敵と見做される上杉達也に知らせた後で部屋で一人でかけていた。または荒川静香が金メダルを取ったトリノオリンピックの女子フィギュアスケートのショートプログラムで使っていた(管弦楽版)ものの直前までフリープログラムで気に入っていたから落ち着くみたいな形になっていた。どちらも人生を賭けた貴重な場面だったと思うし、心の支えにも近いという音楽と共に気に入ってしまわずにはいられない物語で、やはり印象深かった。


ショパンの幻想即興曲はロマンチックでドラマチックで人間の情熱が明らかに味わわれるし、芸術的にもリアリティーが大きくて心酔させられるほどの美しさを覚えるかぎりは素晴らしいと称えざるを得ない。


大好きだから個人的には間違いないにせよ、幻想即興曲はショパンの代名詞とも過言ではない代表作だし、生前も人気の作曲家だったから人々にさぞかし知られていたのではないか、歴史的に考えれば興味や関心は現代と同じだったかどうかというところに振り向けられるはずだった。


驚いたのは、全然、そうでなかった。まるで寝違えたような首の激しい痛みというと詩的だけれども予定通りに振り返ってはならない気持ちが本当に参ってしまうばかりだった。


ショパンは幻想即興曲を十分に完成していたにも拘わらず、生前は手持ちの楽譜を出版しないで、自作曲としても人々には発表しないでいたとされる。


だから遺作の扱いになって現代では聴かれている。未完の絶筆とか習作なんて状態ではないからちょっと珍しいとはいえ、矢継ぎ早に驚かされるのは調べてみるとショパンは本当に嫌だったみたいなんだ、幻想即興曲を人前にあわらに示すのが。世の中に公開するとした気持ちは全く考えられなかったし、差し止めを求めるかのように遺言でも誰かに知られる前に焼き払って欲しいと訴えるまでに自分一人で抱え込んでいたらしい。


ショパンの数々の遺品の中から幻想即興曲の楽譜が出て来て題名も元々は幻想と付いてなくて只単に即興曲と呼ばれていたみたいだけど、知ってか、知らずか、故人の意に反して人々の手に渡るや宜しく覚え込んだように全世界に広まって行った。


何が恥ずかしくて駄目だったのかと咄嗟に勘繰られる幻想即興曲の公開された経緯だけれども僕だけではなくて皆が感動と興奮の些かも冷めやらない名曲中の名曲が作曲した本人のショパンによって出し惜しみを食らっていた。


音楽で専門的にはベートーベンピアノソナタ第十四番/月光の第三楽章のカデンツァなどの他人の作品との類似点から取り沙汰されるようだ。著作権を侵害した嫌疑がかけられれば良くないし、芸術家としても情けないので、ショパンが誠実なかぎりは幻想即興曲を自作曲として世の中に送り出すとは考えられない。個人的にはベートーベンの月光ならば聴いていて何一つ結び付かないから裁判にかけても勝ってしまうようなレベルの類似点かも知れないし、偶々という気がしないでもないけど、物作りへの気概まで踏まえるとそれでも納得できなかったショパンというイメージはとても格好良いだろう。他人の作品を真剣に学ぶために幻想即興曲は実験的に手がけただけだったので、飽くまでも自分のための音楽だから皆に教える必要はなかったと解釈される。


するとただし疑問なのは幻想即興曲がショパンの勉強ならば結果を暗記して用済みとも考えられる。死ぬまで抱えているのは可笑しいし、敢えて遺言で断るくらいならばさっさと自分で捨ててしまうべきではなかったか。楽譜なんて頭の中にあれば大丈夫ではないほどのショパンでは作曲家として感性が余りに貧し過ぎるようだし、ひょっとすると譜面に起こさなくてもできるまでにスマートだったから物作りへの気概はちょっと信憑性が薄そうだ。


他人の作品との類似点に注目するかぎり、ショパンが幻想即興曲を生前に発表しなかった理由はもはや著作権を侵害した嫌疑を免れるためで、何よりも誠実な人柄のゆえに芸術家として情けなくも公に醜態を晒したくはなかったと捉えるのが余程と適切ではないか。


サンジャムのボーダール・ホテル

とはいえ、僕が真っ先に注目したのは全く別の方面だという詩学的な観点だった。自作詩の一つを考えている最中にこれはショパンの幻想即興曲のイメージに何となく迫るように翻っては呼び寄せてさえもいるぞと気付き出したせいだった。人々には教え難い真実が察知されてショパンの幻想即興曲を初めて調べてみて今此処ではかくかくしかじかの事情に触れながらピアノの詩人とも称されるショパンが完全に避けていたと分かって一人で納得していたりしたんだ。


ホームページに詩集を幾つも増やしたにも拘わらず、それはまだ公開されてなくてショパンの幻想即興曲が人々に知られなかった生前の経緯と同じように感じてしまって不思議に可笑しいけれども相応しい詩集がなくてホームページに載せるのが遅れているに過ぎないから個人的に控えているわけではなかった。


ブログで記事のテーマに必要だから今直ぐに単品で出すのも気が向かないので――または謎めきを煽りながら文筆するのも芸術的に面白いのではないか――題名は自作詩の一つと伏せながら取り上げるしかないけれども詩人として何が危ないかというと悪を助長する言葉遣いに誤解されるかも知れなかった、人々からすると。


僕は作詩しながらイメージが悪に焦点を結ばないようにずらしてずらして仕上げたし、事物の本質において永遠に正しいためだから認識として危ないと不充分だったせいだ、人生こそ悲しく受け取れば間違っているはずのスタイルの詩が完成したからいつでも公開できる体勢は整っている。


ところがショパンは露骨に示したから生前に公開しなかったとすると幻想即興曲には人々を悪に陥れはしないものの本物の悲しみを人生的に肯定するような自己表現を取ったのではないかと予想されるんだ。


詩人ならばボードレールロートレアモンのように悪を考えるというか、諸に引き受けてしまうという状態に当て嵌まるはずなので、それはそれで可哀想だから決して無駄な自己表現ではなくてむしろ物凄く頑張って生き抜いて偉大だと評価するし、前例がなければ僕自身が本物の詩人を名乗るためには是非とも追求せざるを得なかった経験の手間を省いてくれたという点では感謝に堪えないわけだれどもショパンが生前に幻想即興曲を発表しなかった気持ちは詩学的に半分だけ足を踏み入れなかったとはかぎらないようだし、ただし逆らったからには本性は善にあったはずに違いなかった。


実際に聴きながらどうして不味いのか、詩学的にいって幻想即興曲が人々に教え難いほどに危ないのはなぜなのかはショパンには気付かれてなかったと思うし、さもなければ僕がやったのと同じで、イメージをずらせば良いだけの造作なさだから自己表現としてあり得るのは真実を掴んで作品に示さずにはいられなかった率直な人柄が全てという一言に尽きるだろう。


ショパンは非常に真面目な作曲家だったと僕は感心してしまいもする。


音楽と詩の関係を知覚するのは大変だし、というのは音符は言葉よりも記号に近いからそれ自体に精神的な強度が低くて一対一で対応し切らないためだ、例えばドレミファソラシのドの音は楽曲によって山だったり、川だったりするように言葉として捉えるには限界がある。言語としては論理学や哲学に近くて詩は言葉を重視するならば最も遠いところに考えられるからそこに音楽を持って行くのも困難を極めるはずだ。


普通に詩的な音楽を聴くというとイメージを介して空や海が見えるような印象についてなので――ドビュッシー交響詩のは本当に上手い――必ずしも音楽が丸ごと詩になっているせいではないわけだった。


フレデリック・ショパン博物館

ショパンはしかし例外的な表現力を持った作曲家で、ピアノの詩人と称されるのも詩と音楽を踏まえながら言葉と音符の一対一の対応が味わわれるから見事だった。


なぜかは音階を個別に保っていて楽想に対して音符を彼自身の展開から外して配置しないせいだと思う。自分の言葉で喋り続ける人みたいに全ての音符がショパンの音楽的な構成に常に収まっているためではないか。すると音符は詩の言葉と遜色ないし、イメージもシの音が都とかなんて一つだけあっさり感じるよりも含蓄深くてもっとずっと多岐に及んでしまうかも知れない。


作曲家でショパンの卓越した能力も音階から音符を掴んでいて(受け取った楽想からどんな音色かを判断するよりも早い)感性がすば抜けて鋭い。一つの音符が別のイメージ、他の味わいに繋がらないように実作においてきめ細かく調節しないと詩そのものの音楽は無理なはずだからそれができてしまうならば天才の天才(カリスマ)とも過言ではないと仰天させられる。


僕が幻想即興曲が危ないと指摘するのは詩学的な観点だし、表現上、どこがどうと明かすのも基本的に不可能――音符から生まれる音楽のそれ自体の内容は音符の状態と知覚される次元が合わないかぎり――だから詩情、またはショパンの特異な楽想として認められる部分のみ考えるならば低音が人々に戦慄を与え兼ねない響きを恐ろしく持っているせいではないか。


地上の悲しみの一切を孕んでいるような全世界の災いを被った呻きそのものみたいなイメージが湧くと思うし、もしも真面目に肯定するとなるとそのままで正しいと悪が求められても仕方がないくらい人間的には聴くのは厳しいから善こそ求めての創作活動が大事だったかぎり、ショパンが幻想即興曲を生前に発表しなかった理由としては如何にも尤もらしく受け留められてしまうんだ。


世の中にはデモーニッシュな音楽は幾らでもあるし――おそよパガニーニが代表格ではないか――イメージもさらに過激だったりするとすると幻想即興曲の低音が目立って忌まわしいわけでは決してないだろう。


ショパンが人知れず、怯えたならばやはり詩そのものの音楽を率直な人柄から作曲していたためで、それぞれの音符と言葉の一対一の対応という方法への理論的な向きがなければ、毛頭、気付かなかったかも知れないにせよ、人々に楽想だけではなくて気持ちも速やかに伝わるとした社会的な趣きの中で、厳しい低音の忌まわしさにちょっとでも影響力を多大に認め出してはよもや開けてはならないパンドラの箱もさながらに幻想即興曲は封印しなければならないと焦っていたと僕は考えたい。


最後の最後の疑問としてはなぜ消し去らなかったかが気かがりなって来るけど、人生で見出だされた、そして音楽から得られたかけがえなのない真実として自分一人ではなくて皆にも知って貰いたかったのではないか、つまり。


幻想即興曲が戦慄と切り放せないとしたら音楽でも演奏される効果的な度合いを上回って本源的な恐ろしさに他ならなかったはずだ。


詩人でボードレールやロートレアモンが悪を歌うのは世界の本源的な恐ろしさを信じていて誰も免れないためだと思うけど、ある意味では《解脱》にも等しい、悲しみながら生きて良いと悟っているわけなので――だから殺し合いも精神的に呑み込めば人格は荒廃するべきだし、二人ともそうだったはずだから本当に凄いと尊敬したくなる、自己表現に真実しかなかったと、そして見詰められた悲しみには嘘偽りの欠片もなかったと平和的には愛さずにはいられない気持ちに誘われてならない――ショパンは音楽に知ってしまって堪り兼ねつつも神に誓って道標を残すようにするべきと考えなかったとはかぎらない。


なので幻想即興曲を捨てるかどうかは作曲家として真実を諦めるかどうかという難儀な選択だったし、消し去るかどうかも自分一人で楽譜を隠し通しても他の誰かが作曲しながら考え付いて皆に教えれば結局は明かしたのと同じだという複雑な心境を伴っているんだ。


ショパンは死ぬ間際まで音楽と切り放せない本源的な悲しみを強いられながら自分らしく希望を夢見ても大々的に披露するまでには踏み切れなかったのではないか。


想像すると切ない。喜びのための音楽が実際には不完全な善だったのではないか。幻想即興曲にかぎっては人生が音を発てて崩れ落ちるような嘆かわしさが禁じられなかった。内面が引き裂かれても驚かないけれども作曲家としては手放されなかったという信念だけがはっきり認められてしまう。


素晴らしいはずだし、ショパンに相応しい、様々な作品と考え合わせてみても。


参考:フレデリック・ショパン 幻想即興曲

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