クレーの理解者は対象を持たない自我が面白い 結城永人 - 2017年2月11日 (土) 一目で面白い構図と色使い、そしてタッチを感じてパーフェクトな芸術作品だし、絵だと唸らされた。 One who understands by Paul Klee / CC0 クレーの理解者という。どう考えれば良いのかだけが物凄く分からなくてまるで挑戦状を叩き付けられたようだった、永遠の詩人の胸に。事物の本質を認識する僕に時間に換算すれば二三秒でも手も足も出ないと思わせたクレーに先ずは称賛を送っておきたいと思う。 注意すると僕は何もかも知りたいのではない 知りたいのに分からない生活が最も腹立たしい。クレーの理解者には良さがあるのではないか。面白いのは確かだけれども感性ではなくて思考において本当に見るべき世界が秘め隠されてしまっている絵だとすれば非常に歯痒い気持ちがしたわけだった。それこそ見たいし、クレーだけが独り占めしているというか、何一つ分からないままでは僕には能力的に落ち度があるようで、耐え難くもあった。 からかわれているに等しい、文学的にいって。ただしクレーは絵を理解者と題しながら人々に謎解きを迫るように見方を独創的に仕向けてはいなかったはずだ。つまり人々こそ理解者になれば良い絵ではなくて本当に理解者のイメージが提示されているのではないか。 如何にも詩的な雰囲気が漂っていて日頃の言葉遣いでは捉えられない世界みたいに諸々のフォームが至る所で価値転換を起こしているからたぶん画家としてはデッサンとイメージの問題が追求された結果だと想像されずにいない。 ヴァン・ゴッホはゴッホの手紙によると見ることと感じることの違いとしてデッサンとイメージを捉えていた。見たままに描くのがデッサンで、それをイメージに結び付けるのが絵だという発想に基づいているわけで、ヴァン・ゴッホを学んだクレーという文脈からすれば重要なのはきっとイメージをデッサンに再び返して世界が成り立って来る知覚に美しさを求めていると直ぐに掴めるだろう。いい換えれば究極的な絵理論――ピカソのイメージだけのぶっ壊れたような絵そのものとは何か、ベーコンの本物の画家としてぶっ飛んだように生きるとは何かもヴァン・ゴッホへの飽くなき追求なしには得難い真実だろう――から審美学を取り出している。 パウル・クレーにおいては世界の事物はおのずと組織され――そして彼はもはやそれらの意を体して書きとめているようにしか見えない。数々のヴィジョンやフォルムの組織化、そしてまた思考の定着、安定化、イマージュの帰納と演繹、それに伴うにそこから出て来る結論、さらにまたイマージュの組織化、ある種のイマージュの底に流れる意味の探求、精神のヴィジョンの明確化、こういったものとしてこの芸術は私の目に映る。 アントナン・アルトーの/精神の画家(豊崎光一訳) するとクレーの理解者は彼自身の意欲作だったかも知れない。何を描くべきかが人生を賭けて求められている。コンセプトが内省的だから表現上も重視されなくて僕にとっては分からない作品に感性と思考の拮抗した状態を踏まえると物凄くだけれども仕上げられても致し方がなかったようにも受け留められて来る。 対象を持たない自我を教えるクレーの理解者 絵の題名の文字通りに考えると理解者は何かを理解した気分を表している。つまり認識ではない。何かについての理解を求められた結果が特徴的に示されているのではなくて一般的に理解者そのものをクレーは考えながら描いているようなんだ。 認識に対象がないという状態はあり得ないので、対象がなければ認識能力は働かないし、認識論の哲学においてはそれに先行する 「物自体」(カント)が認識できるかどうか/理性が確実に保たれる前提条件とは何かが一つのアポリア(行き詰まり)だろうけど、切り放して知覚として考えると経験とは別に空想は対象がなくても十分にあり得るんだ。 しかし空想だと経験と共に生まれたりもする。夜空の打ち上げ花火を見ながら人生の行く末を思い描くならば前者の経験から後者の空想が得られただろう。厳密にいうと空想は表象だけど、表象的な空想ならば理性ではない(対象がそれ自体を明かしてない)けれども認識の一種に数えられるからクレーの理解者の印象にはまだ結び付かないんだ。 空想を経験から完全に切り放すと内面性から対象なしに掴めるといって良い。少なくとも人間にかぎってか、または僕自身は内面性から様々な世界を夢見るし、そうした夢としての空想は経験には全く関与しないわけなんだ。 概念としては夢想が精確かも知れない。夢想といっても心理作用のかぎりは精神の経験だから認識の一種に数えられなくはなくて必ずしも上手く行かない。しかしながら対象を持たずに可能な知覚とは何かを表現するためには空想よりも相応しい言葉遣いなのは間違いないだろう。 実生活では空想も夢想も殆ど同じなので、オレンジを食べながら車を思い浮かべるならば本当にどっちでも良いわけだ。知覚そのものが主体性から来ていて主体性そのものが認識と心理の二つの存在を精神的に兼ね備えているためだ。 クレーの理解者は人間が何かを理解した気分を捉えていると考えられるわけだけれども気分には対象がないと教えてくれて世界として追求すると夢想が最も近い。 なぜ起こるのかは心理作用の精神の経験としては自我に起因している。 人間の内面が非対象性から知覚可能ならば自我の想起させる世界の全てはそれ自体に基づいているはずだ。日々の経験から常々と変化する心理だし、自我の働きは実質的には記憶が大きく影響しているとするとクレーの理解者は記憶によって揺り動かされながら内面的に《様々な対象を新たに想起している》自我そのものの喜びに他ならないように見えて来てしまうわけだ。 紛れもなく透き通った絵の素晴らしさに 絵のイメージはとても簡単で、誰かがどこからか顔をにょきっと出しているだけだと思う。 顔が幾つかの線によって遮られていて手足を広げているようだけれどもはっきりしないから精神力が溢れて受け取られる。何かが炸裂していて線によって遮られた顔の向こう側に謎めきながら気持ちを引き寄せられる。顔が問われるならば大抵は絵の主題も気持ちが対象だけれども他のところで精神力が大きいためにむしろ内面性が注目されずにいない。宇宙と呼べば詩的だし、絵のイメージは最終的には何もかも包み込んでは築き上げるほどの壮大な優しさに触れられてクレーならではのファンファーレも高らかに鳴り響くオーケストラのような美しい世界観、すなわち生命の楽園としての自然の綺麗な在り方を味わいながら心も感動に打ち震えて純粋な涙に泣き濡れんばかりに落ち着く。 クレーは実際に表現している絵自体には大した意味がない。何よりも審美性が大事だから絵自体はメディアと同じで、コンテンツが欠けている。例えば番組なしにテレビだけを見ているような詰まらなさが芸術的には否定できない。メディアの専門家しか興味は湧かないだろう。しかしながら誰でも嵌まるのは想像した瞬間なんだ。絵と共に何が見えるかが分かるとクレーは凄いし、他の誰にも真似できないスタイルで本当に斬新な画家だと心酔せざるを得なくなる。 方法を纏めるとデッサンとイメージは両方とも基本的には描かなくて良い。何よりも一つの美しさを人生の断片から時空を越えて紛れもなく透き通った絵として与えるためだ。重要なのは見えない世界ではない。見える世界の流れに見えないけれども素晴らしい絵があると気付くかどうかが恒久的に試されている。 クレーの理解者は根本的な夢想に匹敵する自我そのものの働きを示しているけれども喜びを知るのはやはり美しさのせいだろう。精神を病んで幻視や幻聴に苦しむのは必ずしも脳神経の損傷には基づかないし、何等かの記憶からも来るかぎりは現実的に決して喜びには限定されなかった。 とはいえ、悲しみは知られない、僕が考えるとクレーの理解者の印象には。 受け取った紛れもなく透き通った絵の素晴らしさが真実だとすればおよそ人間の存在力に内面から立ち会っているはずなので、日常生活の幸不幸とは違った形でのつまりは第六感の生命が呼び覚まされているようだ。 クレーの理解者に非対象性の自我を見付けて何が面白いのか、殊更に考えたくなってしまう理由も全く同じで、第六感の生命が呼び覚まされているせいだけれども悲しみを知らないゆえに希望を真っ先に覚えるんだ。 どんなに不幸でも逃れられないとはかぎらない。存在力に触れるならば未来は際限なく明るいといって良い。何もなくても分かって来る喜びなんだ。奇跡的に救われるかも知れないし、諦めるには可笑しくも及ばない。人生の出口を認めるほどに胸も膨らんでしまう。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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