真実を伝え届ける自己表現が人々には最も分かり易いのではないか 結城永人 - 2017年2月25日 (土) 一口に真実といっても人それぞれなので、見方によってコロコロ変わってしまう、イメージは纏め切らないにせよ、分かり易さは抜群だ思う。伝え届きさえすれば真実は誰にでも信じられるし、良いほどに愛好されるだろう。 サイトのアクセスアップに最も適した方法は人々へ向けて真実を味わわせる自己表現に他ならないと気付いた。 僕は嫌だった。事物の本質から永遠の詩を歌う。すると人々にも真実は完全に当て嵌まっているし、何一つ疑う余地はない。悲しいのは知識として余りに難し過ぎて自己表現も猿でも分かる日本語とは正反対ではないか。仕様がないから永遠の詩でなければなるべく気付き易くするように努めていた。 言葉遣いでは知りたい誰かが敢えて考えれば分かるような偶発的な趣きでしか真実は示されなかったけれどもそれこそ中心的に捉えればサイトのアクセスアップに役立つとすると気持ちを内側に込めると大丈夫なはずだから変えて行きたい。 真実の内側に事物の本質を置いた自己表現、文章ならばイメージによって永遠の詩を包み込んだ言葉遣いが猿でも分かる日本語に実質的に等しいと考えられる。 表向きは超難関では全くなくなるし、人々が僕を見付けるや否や遠ざかるという危険性は減るのではないか。 僕のために必要な何かを文章で取り上げるとサティの音楽と変わらないかも知れない。やらないけど、または個人的に向いてないために物事を真実として完璧に示すならばモチーフも人々に合わせるべきだ。人々の興味や関心に的を絞って作家活動を行うしかない。 生活の人間関係と同じで、共通の話題から気持ちが弾むのではないか。気持ちから食い付きの良い物事をサイトで取り上げなくてはならないわけだけれども面白いのは意外と何でも構わないように感じるんだ。 例えば旅行が好きな人はそれ以外に注目しないのは事実だとしても只一つのテーマで生きるというのも真実に反するせいだろう。 共通の話題がなくても人間関係が上手く行くのはなぜか。面白いわけだ、そばにいるのが。良い真実があって生きるために必要と受け取られているに違いない。 サイトで真実を取り上げるにしても先ずは良いかどうかがアクセスアップには問われる。 上手く行けば必ずしもテーマは引き付けないままに人々に面白いと思われそうだ。 分かり易い自己表現が速やかや方法だし、猿でも分かる日本語が正味に求められるけれども人々の興味や関心にモチーフを合わせながら真実が良いかどうかまで忘れ果ててはならないとすると芸術的には斬新ではなくなり兼ねない。 一つの真実から他の真実への道筋が土砂に埋もれるようにまるで断たれてしまうのではないか。恐ろしい、芸術家にとって。場合によって政治家にとっても生活苦が取り残されるかも知れない。まだ悲しんでいる誰かがいるにも拘わらず、全世界が幸せに包まれているなんて飛んだ錯覚に身の毛も弥立つならば文学者にとっても由々しい事態が招かれるばかりだ。 だから良い真実は全面的に展開する必要はない。サイトで取り上げる物事のモチーフは人々に対してはちょっとだけしか合わせないように纏める必要が出て来ると思う。 旅行が好きな人のためならば素晴らしい旅行を考えながら他の何かにも目が向くようにしておかないとそれだけで終わって不利みたいな形にもなるのではないだろうか。 愛されてリンク/シェアを増やすためにはコンテンツを巧みに纏める必要は否定できないにせよ、斬新でなければ飽きられそうだから本当に有利なのは半開きの扉だと僕は感じる、モチーフを真実に分かり易く示すかぎりでも。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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