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シェフェールの美白と呼べる肌の綺麗な絵の秘密に迫る

十九世紀のフランスで主に活動していたシェフェールという画家がいた。出身はオランダだった。オランダからフランスへ移住したと聞くとヴァン・ゴッホと同じだ。親近感が湧いた、敬愛する画家と繋がって咄嗟にも調べながら。


発見したのはショパンの肖像画で、雨だれの記事で何かを引用するために探していて幾つかあったけれどもテーマに相応しいと気に入った一枚の作者がシェフェールだった。


宗教や文学作品を題材にした絵も多いけど、他方では肖像画も数多く手がけていて長年の歴史に埋もれることがなく。百年を過ぎた今も尚、当時の人々の面影を光り輝くように色褪せもしないままに伝えてくれているという素晴らしい腕前の持ち主だった。


一目で驚いたのは肌が綺麗で、美白としか受け留められなかった、ショパンの肖像画が。偶々なのかとシェフェールの他の作品を見て回ると同じような感触が得られたので、特徴的なスタイルとして画家の個性だったと分かって来た。


アリ・シェフェールの自画像

美白、肌の綺麗な絵を主眼にするとシェフェールの自画像が本当に素晴らし過ぎるくらいインパクトが大きかった。


肖像画としてもこれほどまでに心が眩しくなる絵は初めてだったかも知れない。


何といっても肌に生命感が宿っているせいで、綺麗に光り輝くほどの美白だけれども絵の感性が子供に限りなく近い。懐かしい風景と同時に平和の楽園みたいな日常生活の良さがキャンバスの向こう側に容易に想像されてしまう。


喜びの身近さが途轍もなく味わわれるし、そうした優れた絵の特質を存分に湛えているゆえに目を向けざるを得なくなるんだ。


人はなぜ絵を描くのか。必要性から捉えると感受性の質が問われる、真っ先に。生きてから死ぬまで変わらない人々の一言では無邪気さがあれば良いわけだ。つまり自由の大元として自己表現においては美しさを決定付ける根本原則だと考えられる。


子供は平和の楽園みたいな日常生活の良さを無邪気に知っているけれども認識力が弱いから画家として実作に示すことは難しい。


ところが大人でもそれは簡単にはできない。二十歳以降に人格が整えられて認識力がまるで手足のように身に付いたら今度は感受性の質が弱くなるせいだった。色んな経験から物事への感受性の量が増えると却って内面で錯綜しがちだから頭でっかちに平和の楽園みたいな日常生活の良さが表現し切れない。


赤い林檎しかなかった少年時代に他の青い林檎なども踏まえながらどうやって到達できるかみたいな精神状態に陥ってしまう。林檎には赤とその他の青や数多くの色があって切り放せないかぎり、老いてもはや赤いだけの林檎を描き出すことは無理だと人生ならば無邪気なままではいられない存在だろうと気持ちも落ち込む。


ただしヴァン・ゴッホには可能だった、大人の画家なのに。天才の所以だけれども例えば星月夜を見れば一目瞭然なのは――渦巻くほどに情熱的なスタイルがあった――感受性の揺らぎから量よりも質そのものを取り出すように表現すれば大丈夫ではないか。


本質的に考えると感受性の根差した自我を超越しながら自己表現への認識力と置き換える際に心理上の統覚が保てなくなって錯綜する内面を余儀なくされそうだ。


ヴァン・ゴッホも精神を病んでいたといわれるけれども感受性の揺らぎからたとえ可能でも本物の絵の美しさを正しく描き出すことは本当に難しくて現実的には神業に等しいと理解せざるを得ない。常人にはむろん手の届かない高嶺の花だろう。


およそ愛と狂気の狭間という人間ドラマに良く知られる対象だ。記憶に新しいのはアマデウス(映画)のコンスタンツェがモーツァルトに錯乱しかける場面なんだ。妻が夫の身勝手な振る舞いを何一ついい包められず、諸共に不幸でも納得するしか仕様がないのではないかみたいな実情へと追い遣られてしまう。家の中で泣き叫びながら暴れ回るように演出されていて痛ましいかぎりの心だけれども人間の自由は誰にも強制されては果たされないと分かる。愛するほどに不幸を相手にしては狂気が訪れて来る。身の毛も弥立つ厳しさが禁じ得ない。コンスタンツェはモーツァルトの自堕落な暮らし振りに気絶するように眠ったけど、愛と狂気の狭間からさらに先へ進むというのは先ずはあり得ないと受け留められてしまう。


だからひ弱な魂よ、この前人未到の荒地にこれいじょう奥深く踏みこまぬうちに踵をかえせ、先へ進むな。いいか言うことを聴くのだ、踵をかえせ、先へ進むな、たとえば、母親にまっ向うからきびしく見つめられ、かしこまってそらされる息子の眼差のように。


ロートレアモンのマルドロールの歌(栗田勇訳)

詩人からすればロートレアモンに懸案されるように「先へ進むな」と最初から何一つ考えないで、愛と狂気の狭間へは頓珍漢な答えを無闇矢鱈に掴んでしまうよりは引き下がってこそ明晰なものの見方で笑い得るし、安心できる賢明な生き方かも知れないはずだった。


ヴァン・ゴッホの後ではクレーピカソベーコンが学んできっと個性的にやっていると思うけれども単刀直入に子供が描くような方法では成人してからはいっそ駄目だと弁えながら《感受性の質から成る世界》を想像させられる絵を生み出していて物凄く感動するわけだ。


驚くのがシェフェールも同じではないか。しかもヴァン・ゴッホの前に平和の楽園みたいな日常生活の良さをイメージとして絵の彼方でも実現していたというのは面白い。時代的には十九世紀の中頃で、それぞれの生涯は幾らか重なり合っているにせよ、シェフェールは必ずしも天才ではなく、誰に学ぶともないままにできてしまったとすると本物志向が極めて大きかったに違いないだろう。必要な絵とは何か、自分が引き付けられる美しい絵とは何かという究極的な疑問を懐きながら絵描きに取り組んでいたように察せられる。


アリ・シェフェールのフランソワ・ルネ・モローの肖像

フランソワ・ルネ・モローの肖像は赤い服を着た自画像と比べては余程と地味な印象を与えるけれども生命感が画面全体にそこはかとなく漂うように表現されていて完成度が高い、紛れもなく。


美白が周りの落ち着いた雰囲気から醸し出されていてシェフェールの肌の綺麗な絵の秘密に触れるんだ。迫ると何よりも感受性の質が生命感として受け取られるので、明らかにも全ては詩情に重点が置かれているようだ。


平和の楽園みたいな日常生活の良さが肖像画ならば人物を物語るために人生の下地から捉えられたわけで、肌の魅力から描くという発想がもはや詩人と変わらないと思う。人物を伝えるために世間体を排して存在そのもので丸ごと伝えたかったとすれば文学的でもあるかも知れないにせよ、生命感が人生の下地に他ならないとしたはずのシェフェールの真実に胸打たれる。


見たままの写実的な絵にしては肌が目立って綺麗で、全く以て美白なのは光の色彩が求められていたせいではないか。


光がなければ人は何も見えないし、色は味わわれない。何かが見えたり、色が味わわれたりするのは光の恩恵だろう。画家にとっては必要不可欠だし、得られるかぎり、もはや最も大きな喜びの一つだと導き出される。


人生観に繋がるやシェフェールは画家としての方法に光を取り入れながら美白と呼べる肌の綺麗な絵をまるで歌うように作り上げたと考えられる。


細かく見ると輪郭が甘いのはゴッホもさながらに感受性の揺らぎから来ているはずだ。フランソワ・ルネ・モローの肖像は背景も壁の模様が幾つもの火の玉を彷彿とさせる。実際、モチーフのフランソワ・ルネ・モローは画家だったので、胸に共振するものがあって強く打ち出されたのではないか。


いい換えると魂に訴えかける造形が施されている。シェフェールは感受性の揺らぎからかつての自分自身を懐かしく振り返るようにいつまでも引き付けられる美しさの謎解きを試みた画家だったと認めるのは容易い。好んで芸術の普遍的な在り方を手に入れていたようだ。

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