地獄で救われないから見守る神を遠ざけながら今直ぐに死んでも幸せだと考える 結城永人 - 2017年11月25日 (土) 疲れ切って堪らない。気力も体力も限界だ。ブログのアクセスがスムーズに伸びないのが辛い。三ヵ月も足踏みだ。いつまで一日百人なのか。早くしないと死んでしまう。 本当に詰まらない現実だ。休むしかないと思う。働いても働いても金儲けに結び付かない、ブロガーとして全く――。 なぜ神は救わないのか Mountaineering of dusk by Sanshiro / Pixabay 分けても永遠の詩人の僕を無視するのでは誰も喜んでないんだ。地獄しか生み出さない。詩だけしか認めたくないのか。僕が喜べばおよそ皆が笑うだろう。死神と悪魔、そして何よりも親玉の閻魔を仕向けて人生の妨害ばかりする。苦しむ永遠の詩人を受け取って何が面白いのか。 良い加減に離して欲しい。つまり神は僕を独り占めするために世の中の誰も手を貸さないように取り計らっているわけだ。昇天させるつもりでもなく、現世で救われないままに生かし続けている。 ならば分かった。進むべき道も地獄にしか広がってない。いつでもどこでも死にかけながら生きて行くべきなんだろう。神だけが見守っている永遠の詩人が実情では作詩するのと変わらない。 言葉を自由に発する。世界の本質的な認識の喜び、天使と自然に触れ合う心の幸せ、ついに祈りを捧げて受け取る神からの途方もない愛以外を求めても仕様がないんだろう。 見渡すかぎり、死神と悪魔、そして何よりも親玉の閻魔を仕向けられた極めて不愉快な日常生活を強いられるかぎり、本当に詰まらないと嘆いていてもそれこそ誰がやって来るのか。 死ぬのが落ちだ。結局、誰も近寄らない。永遠の詩人が僕だけなのは如何にも尤もらしい。救われるなんてどうもやはり想像だにしない真実だ。 好き好んで誰が知りたいか。言葉もないよ、極限的に。気絶して流れ着く命たちは果てしもない時間に磨り減らされて現世で見聞きされたどんな原形も止めてなどいない。だからこそ僕も安穏と生きられるわけかも知れなかったにせよ――今此処の不幸の味わいを否甚だしく高められずに済んだかのようだ――普通は望まないのが賢いとさえも考えられる。 無理だから僕も真実に拘泥るのを大概にしよう 永遠の詩人の神だけが見守っている立場から理解されないと感じても人々にとって余程と妥当な認識ではないか。死神と悪魔、そして何よりも親玉の閻魔を仕向けられている。気持ち悪くて耐えられるわけがないのを打ち破って欲しがるな、幾らか奇跡的にあり得るとしても。 たぶんブログのアクセスをスムーズに伸ばしたければ大勢に尊ばれるブロガーにならなくては行けないはずだ。 詩の天国から気持ち良くやるしかない。どうでも構わない、何もかも地獄なんて。見当たらない出口へ彷徨き回ってばかりいるだけの毎日では虚し過ぎる。 神は僕を独り占めするために人々を気持ち悪く遠ざけるならば人々を努めて気持ち良く近付けて神こそ遠ざけるのが最善策だろう。 悔しいから厳しい。神は遠くから見守るのも平気だし、僕から離れるや否や泣き叫ぶわけではない。本当に余裕綽々で存在しているのか、少なくとも人間では考えられないほどの正しく大きな愛を反対に誇示するんだ。全く以て遠ざけるのは厄介だと感じさせる。 しかし終わりだ、地獄で崇めるのも。天国からもう既に救われた真実だけを重視してブログを更新するんだ。誰も来なくても構わないつもりならば一人でも悲しみは少ない。アクセスがスムーズに伸びなくても笑える。 神は詩の救いで十分だと納得しよう、まさか救いの手を歌った僕には何もかも簡単というか、永遠に宿命という人生でしかないから。 今直ぐに死んでも幸せだと考えると現実が詰まらなくて将来が忌まわしくても気力と体力を殊更に削がれないはずだし、疲れ切ったと無性に落ち込むよりも気楽に過ごしながら常日頃のストレスが減らせる分だけ健康と長生きにも良いかも知れない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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