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ダダイズムの精神状態は慈愛の念から自分自身の判断材料として活用すると良い

姪が入院している精神科から家に来て五回目の外泊を行った。口調が早くなったというか、昔と変わらない喋りを新しく感じて治療抵抗性統合失調症は本当に完全に回復したようだった。明るい気持ちが自然に表現できていたので、病人の忌まわしい不吉さが十二分に払拭されているのを喜ばしく認めた。

一つだけ声の出し方が変わったままなのがちょっと訝しいんだ

弱々しくて生きていて済みませんみたいな印象を与える。世の中で偶に見かけるし、そういう性格に成長してしまったせいならば別に構わないけれども姪には合ってないような感じがしないでもない。

すなわち「恥の多い生涯を送って来ました」(人間失格)だと作者の大宰治が自殺したように危ない。

世の中で本当の自分を演じるのは精神的に不味い。皆が気に入らない役割を担ったりしながら日常生活で普通にやっている言動は反対で、偽物の自分を演じているわけだ。例えば又吉直樹の火花が売れるように多くの人たちがそれこそ人間の悩みで、なぜなのかと取り上げるのは文学的と考えるかも知れない。生きていて上手く行かない何かによって本当の自分が押し殺されて行くように悲しい。ところが大宰治は日常生活が内面的に入れ替わった状態を人間失格で取り上げていたんだ。いうと《何も演じられないのを演じるばかりの辛い気持ち》を余儀なくされている。ダダイズム/退廃主義の影響が大きいと感じるし、物事の価値観そのものを逆さまに捉えてしまっていたようだ。

私はもう歌なぞ歌はない
誰が歌なぞ歌ふものか

みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする

みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまはないのだ

それなのに聴いてるやうなふりはする
そして盛んに拍手を送る

拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
もう沢山といつた顔

私はもう歌なぞ歌はない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない

日本でタダイズムの作家というと詩人の中原中也が最も分かり易いだろう。自作詩の詩人は辛いが象徴的で、詩人なのに歌うことが辛くなってしまった。すなわち本当の自分が世間一般の偽物の自分と等価に扱われているからだ。心の拠り所がないので、人生で廃墟にしか存在が得られないみたいな雰囲気のダダイズムを完璧に表現している。

廃墟

中原中也もノイローゼにかかったりしながら殆ど自殺に近いような奇怪な死を遂げていた。小説では大宰治が優れて体現していたダダイズムだけれども二人とも享年はそれぞれに三十と三十八でさほど長生きしなかった。人々の価値観と内面的に対立した真実を真剣に追求すると恐ろしい世界が待ち構えているのではないか。

姪の性格にそぐわない弱々しさがダダイズムに通じるとしたらどうなるかと苦慮されずにいない

治療抵抗性統合失調症を回復させるために僕が優しさを積極的に教えようとしたから慈愛の念が増したせいかも知れない。幸せを心から味わうと周りの全てが可哀想に見えてしまう。すると生きていて済みませんみたいな気持ちも生じて来るのが自然だろう。変わらないかぎり、慈愛の念として自分らしく引き受ける気持ちが大事だ。優しくも弱々しく生きるとか全てに申し訳半分で存在するのが本当の自分と超越すると程度の差は人それぞれにしても概してダダイズムに向かうしかない。

二十世紀前半に芸術や文学の思潮として世界的に広まってもう終わって流行らないみたいだけど、しかしながら人間の精神状態としては必ずしも無視するべき事柄ではないだろう。

目立ったところでは著名人の違法薬物がダダイズムと切り放せないのではないか

以前、清原和博高樹沙耶酒井法子という犯罪者を取り上げたけれども考え方を抽象化すれば何れも違法薬物に手を出しながら人生はどうなっても構わなかったわけだからダダイズムに匹敵する。著名人は皆のために頑張って人気を博すけれども日々の立場が尊ばれて振り返るとどうにも悪いと悔やみながら本当の自分に耐えられなくなる場合も優しい性格を持つほどに芽生え易いかも知れない。人柄が美しいから罪を犯すというと人間の謎と呼んで良いし――善行とは現実に何だろう――誰にとっても逃れ去れない神の裁きを根源的に写し出してもいるようだ。

ダダイズムは自己破滅を導くから一般的に警戒するには越さない

思潮としてかつて世界的に広まった芸術や文学だと意味合いが違うし、社会の常識の誤りを問い質すというか、または虚飾を剥ぎ取る認識の切れ味が重要だったはずなので、方法上、自分らしく生きるために物凄く役立つと分かる。他の誰かと同じでは個性は些かも見出だされないままだろう。ただし皆を否定するかぎりの反逆者が正しいのでは犯罪や狂気の温床になり兼ねない、生き方において。厳密に捉えても太宰治や中原中也が示すように半死半生の人間的に辛い気持ちを避けられなくなるのが真実だからダダイズムを日常生活に無制限に取り入れるのは止めて欲しいと感じる。

全ての発端は慈愛の念にある。心から味わった幸せが世の中を可哀想だと知らせた。自分以外は何て悲しんでいるのか。不幸だと自分ばかり落ち込んでいて気にも留まらなかったはずの全てに対して助けようのない情けなさに包まれながらダダイズムは生まれるんだ、本質的にいって。無意識に策定された良心、または善良な人間性の反証的な徳/目覚めてはならない悪夢のような味わいの安息感に他ならない。

だから自分自身への判断材料として内面的に活用しながら少しでも世界を立て直すべく、慈愛の念こそ人生の指針として頑張るのが良いと思う。

姪は天使だからダダイズムに丸ごと嵌まるのは向いてない。声の出し方が弱々しいのは致し方がないというか、軽度の知的障害者で紛れもなく無邪気な性格に合わせるならば優しさから自分にできることをしっかりやり切るように教えたい。自分にできないことに落ち込んでいる場合ではないんだ。慈愛の念を持つかぎり、願っている自分以外の全ての幸せを少しでも多く実現する生き方が本当の自分だし、覚えておく必要がある。

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