ルソーは人生の絵を描き切って只一人の個性的な画家で

ルソー私自身:肖像=風景はインパクトの大きい絵だと思う。モチーフの迫力が凄まじい。


画家の本人の自画像だけれども僕が自作詩の自画像で追求した気持ちによれば個性の由来と源泉を探ることが重要だった、望ましく描き出すためには。


すると自分は自分だという内面を織り上げている前提条件としての経験を掴み取った自画像は素晴らしいと考えられる。


人間味が伝われば何でも構わないけれども《世界の退っ引きならなさ》が表現されているほどに他の誰でもないと個性が分かり易くなって芸術上もインパクトを増すのではないか。


見ているとルソーの絵は本当に凄かった。



タイトル通りというか、自画像にはやはり完全には見えない。自画像とは何かと僕が作詩から捉えた認識からすれば画家のイメージがむしろ弱くて瞬く間にはインパクトも小さい。


しかし風景ともいい切れない。風景と見ようとすると画家が視界を遮るようにしてデカデカと真ん中に突っ立っているせいだ。


この絵の最も不思議な点は自画像とも風景とも見ることのできる《相関関係の構図》うちに含まれている。


対象の大きさと共に配色も画家よりは風景が目立つようになっていて画面の中央が全てには思われて来ない。


しかし自画像ではないか、全体的には。絵の隅々まで見渡してみれば諸々の対象から具に立ち上るイメージにルソーを知ることは決して吝かではないだろう。


自画像には完全には見えないというけれども画面の中央に目立って描かれるスタイルを抜きにして味わうと絵の一部始終が人生を物語っているし、平板なほどに物事が幅広く克明に表現された作品だと受け取られるんだ。


タイトルの「私自身」の言葉を踏まえてみれば自画像は決して画家としてのものではなくて身の回りの生活を丸ごと捉えた上での人間性そのものを示しているはずで、画面に描き出されたあらゆる対象が画家を含めて一人の人間の内面を織り上げるべき真実こそしっかり掴んで放さない絵だと考えると素敵だし、素晴らしい感動を呼び起こさずにもいない。


永遠に生きるつもりで夢見て、今日は死ぬつもりで生きよ


ジェームズ・ディーン via James Dean(訳出)

同じなんだ、気持ちはルソーも。世間体を越えて一人の人間としての生き様を作品に打ち出していた。


ルソーは自己表現を通じてしか画家になることはできなかったし、画家だから絵が確実に描けるわけでもなかった。結果としての作品に本物の自分を見出だすために私自身:肖像=風景は手がけられたように認められてならない。


私が偉大になり予言者のごとき口調で語るために必要なのは、時としてただの一語にすぎないらしい、なんということもないちょっとした単純な一語にすぎないらしい、証人としての一語、明確な一語、微妙な一語、私の骨髄のなかにたっぷり浸され、私から引っぱり出されて、私の存在のいちばん端に引っかかっている一語にすぎないらしい。



子供が好きな気持ちで白紙を埋め尽くすとそこに芸術があり、絵の傍らに一人の画家との出会いも転がっている。


こうしたことは大人でも可能だけれども気付かれ難い。白紙を扱う代わりに只単に町中で道を歩いている作品かも知れない。只単に電話をかけながらメモを取っている作品かも知れない。只単にテーブルに箸を置いている作品かも知れない。遊びと共に芸術は手に入れられて学びと共に失われる。芸術家も人が触れ合った喜びに驚くや否や立ち去ってしまうことだろう。


ルソーはアルトーに劣らず、ディーンに引けを取らず、私とは何かを熟知する才能の塊だ。一つの存在の奇跡的な成り立ちを記憶することができた。そして作品にイメージを定着していた。


直接的に知り得ないからといって間接的に仄めかしているわけでは必ずしもない。


絵の隅々がかけがえのない瞬間をはっきり指し示していた。気持ちならば幾らでもあり得る自己表現だろう。新しい感性は好き嫌いを突き抜けながら人々を存在へと立ち返らせる。それは気持ちの手前で、好き嫌いを打ち固め得る水面だ。情熱が迸るほどに気化されて空を瑞々しく彩り、目を上げた先の雲からは恵みの雨を降らせもする。


アンリ・ルソーのオレンジの茂みの猿

錆び付いた私から見ればコンクリートでしかないはずのジャングルもルソーはオレンジの茂みの猿で描いていて僕の最も引き付けられる彼の絵の一つだけれども慈悲深さが溢れていた。自作詩のオレンジ・ジャングルの作詩中にもルソーを真っ先に思い起こさずにはいられなかった。彼は鬼才だ。鉄板とされる常識を打ち破る世界を明け渡すように気付かせてくれる。または天使かも知れない。好き嫌いに縛られた呻きから私を生き返らせてしまう。


ルソーは私自身:肖像=風景遠くに広がる空や踏み締められた道で私とは何かをリアルに感じ取らせる。


今此処の状況をまるで詩人のように歌い上げている。言葉が人それぞれの意味や価値を持つならばイメージも又変わらなかった。ルソーの絵を見ていると対象が生きていて多面体を醸し出している。肌触りが美しい。だから一つに取り纏めてルソーと呼ぶことは決して容易くはないとしても諦めては行けまい。


どれも誰にも理解されないままに表情を失っているに違いない。擁護するためにいえばルソーは下手だから絵に精細を欠いているわけではない。画家も目はぎょろっとして手はぎこちないだろう。なぜかは物事が多面体だからだ。一つに取り纏めてはならず、たとえ空想でも人は旅行してはならないし、見事に理解されてはならないという内面上の意義を「証人」としてか、ルソーはきっと全力で引き受けたかったはずだ。


僕は断言せずにおこう、ルソーの中身についてまでは。多面体ならば魅力的な肌触りによって察せられるだけで十分過ぎるくらい心地良い。または良く分からないのに面白いなんて絵でなくても甚だしく珍しいと思う。

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