日本語で作詩する意義/中原中也と山本陽子と銀色夏生のその後で 結城永人 - 2016年8月10日 (水) ブログで好きな詩集に銀色夏生のあの空は夏の中を選んだ。詩人としても銀色夏生は特別視されるし、さらに追加して自分の気持ちを明らかにしておきたい。 銀色夏生は好きな詩人の一人で、本当に良い詩集を、沢山、出しているし、読み応えに嵌まりながら何冊も買ってしまわざるを得なかった。 ところが乗り越えるべき大きな壁のような存在だった、日本の詩人として歴史的に捉えてみれば。 White fog over the dark forest by Staffan Kjellvestad / Unsplash 個人的な見解だけど、国内で現代詩の流れが中原中也から山本陽子を経て銀色夏生で止まっていた。時代順に三人を並べて考えるとどうもそんなふうに受け留められて来る。 僕はその後に入るつもりでいつも作詩していてつまり日本において銀色夏生の先の世界にまで現代詩を持って行きたいという願いを抱きながら正しく取り組んでいるわけなんだ。 中原中也は真実に優れた詩集を残した 中原中也は詩人として詩でないものとの接触を完全に果たしていた。地球的にも例は少ないはずではないか。かつてノイローゼでボロボロになりながら生きていたりもした。いい換えると人生の苦しい場面で役立つような真実に優れた詩集を残すという偉業を成し遂げたに違いない。 山本陽子は詩でないものを受け入れた 山本陽子は詩人がノイローゼになるような母国語の言語体系の乱れを熟知していたと思う。それこそが詩人の生きる道であるといわんばかりだった。全ては詩でないものを積極的に受け入れたせいだろう。察しては素直の為せる業だけど、しかしながら詩はそこでしか生まれない。詩でないものの中から詩が生まれて人も初めて詩人になるかぎり、至極全うな考え方だ。 銀色夏生は飛び抜けた詩を持っていた 銀色夏生は神憑りの言葉を掴んでいる。何よりも詩でないものの中から詩が生まれるという世界の果てしない衝撃、または崇高な美意識によって作詩している。本人も気付いてないかも知れないけど、とにかく詩の感触が途轍もなく素晴らしい。生活に必要不可欠なイメージとしかいえない。 僕は永遠を歌うし、詩は素晴らしいと殊更に感じて止まない。事物の本質的な認識で、神憑りの状態なので、この言葉から詩を永遠に示していると考えると銀色夏生の先の世界に到達しているに等しかった。 日本の現代詩の大きな流れとして中原中也と山本陽子と銀色夏生が注目された中で自分の位置付けを図ってみると詩でないものから生まれる詩の神憑りの素晴らしさが永遠だと告げているところにしかなかったんだ。 個性だから永遠を歌う以外には何もできないし、したくもないので、いってもいわなくても同じにせよ、しかし日本の詩人としての意義付けを行うことも大事ではないか。 闇雲に言葉を並べても詩にはならように日本語で歌いながら自分には何一つ価値はないみたいな虚しさに襲われるとすれば個性こそ根本的に捉え返すべきだろう。 なので詩を母国語で歌う、日本の詩人としての自分の良さを心に引き寄せながら生きて行くために立ち位置は見定めておきたい。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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