どうすればアクセスを伸ばせるかを真剣に考えてみた結果 結城永人 - 2016年8月16日 (火) 伝わってないと思う、僕の愛が訪問者に。端的にいって訪問者に向かってサイト運営をやるべきだ。 ブログでゴッホについて載せたり、銀色夏生について載せたりしてたぶん訪問者は僕のゴッホへの愛、銀色夏生への愛は分かってくれている。これではしかしアクセスは伸びるわけがないんだ、ゴッホや銀色夏生からしかおよそ。僕の訪問者への愛こそ訪問者にキチンと分かって貰えなければどうしようもないと思う。 難しくて今まで殆どできてなかった。掲示板やメールのようにどうやって訪問者のためのコンテンツを生み出せるか。いうと自分のことが載っていると誰にでも同じように分からせられる管理人でなくてはならない。 自己表現のスタイルを皆に向かって取り纏めると良いのではないか 気付けば易しかったみたいで、管理人の思いをテーマに打つけないんだ。どんなに頑張って取り組んでもサイト運営で愛のために思いを打つける先は訪問者にしておくという。 訪問者に思いを打つける自己表現のスタイルは気の持ち方でしかないからできる人は直ぐにできるはずだし、Google+(サービス終了)なんか挨拶だけで大勢の人を呼んでいたりする光景を目にしては驚かされていた。管理人の「おはようございます」から百人の常連が掴めるサイト運営は事実なんだ。あり得ないと思って写真が良いとか他の魅力を探りたくなるけど、しかし本当は「おはようございます」が訪問者に向けられた言葉で愛として理解されているせいだ。 実生活でも同じだ。そっぽを向いた挨拶では「何だ、この野郎」(アントニオ猪木)と思わせてしまい兼ねない。プロレスならいざ入らず、誰もサイトという名のリングには上って来ないだろう。忙しくても暇でも見ず知らずの誰かという管理人との縁は愚か、絆にも優れず、かぎりなく薄かった。訪問者に向かって挨拶を送るようなコンテンツが是非とも求められる。 テーマは皆でなくて構わないし、人類について取り上げてなくてはならないわけではない。または自己表現のスタイルが訪問者に向いてなければテーマが何だってアクセスは変わらないと予想されてしまう。 町作りで道を整備するようなものだ、手広い自己表現のスタイルとは。管理人の周りでコンテンツを終わらせない。離れた訪問者まで届かせられれば望ましい。気持ちがまさか全てだ。管理人とテーマだけではなくて訪問者も巻き込んだサイト運営を考えなくてはならない。 昔のように掲示板に頼らず、できると期待するのもそのためだった。コメントを返す手間を省いてサイトのアクセスが稼げるなんて夢のような話だし、律儀にとってあるまじき管理人の姿ではないかと苟も目を背けてばかりいた。しかしコンテンツに手間をかければやることはやっているから個人的に申し訳なく感じる必要はない。命懸けだし、死に物狂いのコンテンツを揃えていればこそ大手を振って眺めるだけのアクセスで構わないのではなかったか。 好調な人は好調で、不調な人は不調だ。悲しみを乗り越える生き方を喜びながら取り入れても効果的とはかぎらない。訪問者との交流なしにアクセスを狙うならばそれ自体に泣いていても仕様がない。むしろコンテンツに魂を吹き込みながら諸々の作品を通して訪問者が僕と出会えるという形を徹底的に実現したかった。 今からでも遅くないというか、熟れた文章にせよ、美味しい果実でも何でも向上心が出口への鍵を握っている。気がかりなところは足を引っ張られないように改善に積極的に努めなければならない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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