オリンピックは古代ギリシャのオリンピアの祭典に基づく 結城永人 - 2016年8月7日 (日) 十九世紀末にフランスのクーベルタン男爵がオリンピックを提唱した。古代ギリシャのオリンピアの祭典を現代に蘇らせる。以来、オリンピックは世界中に規模を広げながら止まることを知らないまま、今に至っている。 2016年の開催地のリオデジャネイロで取り入れられた難民選手団という発想にオリンピックの平和を強く覚えてブログに載せた後もGoogle+で「平和の祭典ならば世界各地でやって欲しいものだ」と載せながら詳しく知ろうと調べていたらブログに全てを纏めるように又載せてみたくなった。 オリンピアの祭典とゼウス信仰 古代ギリシャのオリンピアの祭典の成り立ちそのものは判然としないらしい。只、紀元前九世紀頃には行われていたようだ。日本だと縄文時代の終わり頃に当たる。残される資料も極めて少ないわけで、時代が余りに古過ぎて人々の事実を掴むことは非常に厳しいに違いない。 元々はオリンピア地方でギリシャ神話のゼウス(万能の神)に捧げるべく開催される四年に一度の宗教的な行事だった。 そこには運動だけではなくて芸術も含まれていたとされる。作家・詩人の僕にとっては素晴らしいと瞬く間に思われてしまう、尊ばしくも。それこそ詩を歌い聞かせ合う詩人たちの競演も開かれていたらしい。 オリンピックも1896年のアテネ大会で初めて実現されて徐々に盛り上がりながら1912年のストックホルム大会で運動部門と共に芸術部門がオリンピアの祭典に倣って追加されて運動選手だけでなくて芸術家も金メダルを貰うように変わった。 しかし1948年のロンドン大会を後に1952年のヘルシンキ大会からは芸術部門が廃止されてしまった。作品の採点がし難いのが主な理由だったみたいだ。 推察すれば古代ギリシャでは身体と精神が一つに合わさってこその《人間そのものの能力》を様々な領域で讃えるように世界の統治者のゼウスに捧げながら固有の祈りに代えてオリンピアの祭典が催されたのかも知れない。 オリンピックの平和とは何か 僕が最も引き付けられたのは平和なんだけれども殺し合いが禁じられていたといわれる。非常に興味深く感じられた。 オリンピアの祭典の競技としてはレスリングも長時間で過酷だったらしいけど、ボクシングとかパクラチオン(総合格闘技の一種)なんて殆ど殺し合いに近くてルールもあってないようなものだった。どちらかが負けを認めるまで試合は誰にも終わらせられなかった。しかしながら目的は飽くまでも殺し合いでなければ平和への祈りだったはずだし、生きる喜びを最大限にゼウスに知って貰うために必要とされたと考えると格闘技は分けても過激にせよ、本当に凄い気持ちが込められていたと唸らされずにもいなかった。 オリンピックはルールまで加味してどんな競技も殺し合いに近付かないように健康のための取り組みみたいな意味合いも含めながら行われているわけで、古代ギリシャのオリンピアの祭典も思想的により洗練された形で表現されながら復活しているんだと認められる。 それぞれに変わらないのは平和への祈りで、しかも全世界が熱狂するくらい渇望されるものだった。 気付いて平和への祈りをオリンピアの祭典やオリンピックと結び付けて受け留めてみると人々もやはり激しく求めているのは明らかだし、いつでもどこでも大事にしなければならないという思いを新たにする。 参考:古代オリンピック オリンピックの歴史 近代オリンピック オリンピック競技 芸術競技 コメント 新しい投稿 前の投稿
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