詩と人生のためにダ・ヴィンチのモナリザに隠された芸術上のヒントを追え
ホームページ(ブログへ移転)に「詩集はさらに七つくらいまで追加できると思う」といった予定は無事に遂行された。
公開した詩集も全部で二十二に増えた。気持ちは、大分、落ち着いて来たし、ホームページにいつか載せなくてはならないとした焦りは解消されたに等しい。
昔の詩集だけれども詩の題名や本文や詩集での並び方も変えながらやっていると今だからこそ出せたのかと思ったりもする。
一度は完成品として公開しておきながら後から修正せざるを得なかったものもあるし、どこで区切りを付けるかとなると芸術家にとって芸術作品において俄かに問題視されてしまう。

芸術作品の区切りというと真っ先に思い浮かぶのがダ・ヴィンチのモナリザだろう。完成してないんだ、本当はというか、作者にとって。どこからどう見ても完璧に感じられる絵ではないかしら。
ダ・ヴィンチは死ぬまでモナリザに筆を入れ続けていたらしい
尤も見せてもいなかったみたいだ、人々には。一人で後生大事に抱えながらアトリエで何年もかけて描き続けながら亡くなってしまった。
こういうと他にも例はある。絶筆とされる自己表現だし、個人的にはカフカの城や審判、日本ならば夏目漱石の明暗といった小説が作者の死によって妨げられずに書き続けられたらどうなったかと未完成の残りを想像させられて止まないんだ。
ダ・ヴィンチはちょっと違う。もう十分に完成している、モナリザなんか見れば。未完成の残りは全く気付かれないし、後生大事にの言い伝えからすれば何だろうと首を傾げざるを得なくなる。
只の煽りかとありもしない謎を匂わせるためにわざわざ筆を入れ続ける振りをしていたに過ぎないとダ・ヴィンチの脇腹を人差し指で突いてみても気持ちそのものは分かるわけでもなさそうだ、夢の中でただし。
生産的には参加することに意義があると知られるオリンピックと変わらない。描き続けることに意義のある絵、やり続けることに意義のある芸術、創作活動をダ・ヴィンチは身を以て教えてくれていたのではないか。もはや人生と切り放せないくらい作家自身が作品になってしまっている。
僕は「パフォーマンス=アート」というけど、とにかく死ぬまでモナリザを描き続けて作品として完成したかどうかも関係ないところまで達したダ・ヴィンチには恐れ入る他はない。
人生で芸術家に区切りがないように芸術家で作品に区切りがないと考えると詩集の綴じ方にも一定の限界を持たせざるを得ない。コンセプトで諸々の詩を纏めなくては行けないけれども後から直すにせよ、直さないにせよ、余り気にし過ぎても仕様がないだろう。
大事にしたいのは地面を踏み締めて前進するための靴紐が切れないようにしっかり結んでおくように固める自分としての決意だ。決意が揺らいではコンセプトもぼやけしまわざるを得ないはずだし、詩集そのものがもはや纏まらなくなり兼ねない。
これは個々の詩、文章一つ、言葉一つでも決意から来ていればそれぞれに同じだし、他の芸術、創作活動の仕上げでも変わらず、翻っては人生の場面にも当て嵌まる。全体的な纏まりの良さは部分的なそれに基づかないかぎり、得てして粗が目立つとか泣かされるような嵌めに陥り易い。
些細な日常から人生を捉えて膨大な幸せを呼び込みたいけど、作品でも部分から全体へと纏め上げて行かなくてはならない。
決意が問われる、逐一。それでも、尚、結果として違和感が残るとすればもう本当にダ・ヴィンチだし、溜め息混じりの芸術、創作活動、そして人生において共感を抱くほどに意気こそ増さしてくれるんだ。
詩的にいえば光明だろう。些細な日常にやはり転がっているわけだから決意が傾けば自分にとっては手当たり次第に気晴らしみたいに掴んだ光明のかぎりを尽くしてやり続ける、何事も。
かねて自作詩集の終わらなくてもで永遠に歌ったけど、見えない出口に藻掻き苦しむばかりの絶望的な状態は抜け出せるかどうか、溜め息の向こう側ででも生きられると良い、命が惜しければいつの間にか通り抜けて行ったように。
ダ・ヴィンチのモナリザの美しさも正に一人の画家が光明のかぎりを尽くしたところに受け取られるのではないか。
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